備中高松城

Basic information
name備中高松城
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selected続100名城 171
location岡山県岡山市北区高松

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Data




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Record

攻城日時

2020年1月13日

攻城手段

JR吉備線(ももたろう線)

攻城記録

 岡山県の続100名城、備中高松城。毛利、小早川隆景の家臣、清水宗治の城、備中高松城。羽柴秀吉の名参謀、黒田官兵衛が水攻めを進言したことで、とても有名。

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 備中高松城の始まりは古く、備中松山城の三村氏の家臣、石川氏が、支城として築城したことが始まりとされている。資料には城主として石川久孝が出てくるそうだ。1575年の備中兵乱で、毛利氏と宇喜多氏により三村氏が討伐され、そこから諸説あるが、結局、清水宗治が備中高松城主に。清水宗治は三村方から毛利に寝返り、小早川隆景の臣従となった。清水宗治は毛利の傘下でよく働き、織田信長の毛利攻めの際にも活躍。小早川隆景の元で、備中境7城の1人として、小早川隆景の三原城に呼ばれて作戦を与えられる。織田勢は、羽柴秀吉を筆頭に、蜂須賀正勝、黒田官兵衛、竹中半兵衛、宇喜多直家らが備中に迫る。他の7城が呆気なく降伏する中、清水宗治は備中高松駅にて毛利領を死守する。備中高松城は石垣もない平城。土塁で囲った程度だったが、低湿地、沼地が防御力を高くしていた。しかしそこに、有名な秀吉の水攻め。10日間程度で堤防を完成させ、丁度梅雨の時期であったため、備中高松城は本丸部分のみ湖面にぽつんと浮かぶ孤島と化した。ここで本能寺の変が起こる。秀吉は清水宗治の切腹と引き換えに、毛利家と和睦。そして、中国大返し。歴史の一大局面に、この備中高松城はその中心にあった。

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 さて、備中高松城。津山線で9時47分津山を出発。岡山で乗継ぐ。吉備線は名前が変わり、桃太郎線となった。タモリさんも言っていたが、吉備線の方が情緒があってよいと思う。11時29分備中高松駅に着。津山から1時間40分1320円。

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 次の12時31分の電車まで1時間程度しかない。したがって、ここも駆け足攻城。駅から備中高松城址まで徒歩10分800m。田舎らしい住宅街風景の中、歩く。高松城址公園に到着。現在は高松城址公園となっており、遺構はほぼ何も残っておらず、攻城にはかなりの想像力が要求される。という前情報。しかしそうでもない。水を引き入れたという足守川は見えないが、広大な田園風景でここが湿地であることはわかる。公園内には、冬枯れの蓮の湿地もあり、水をたたえた箇所もある。清水宗治の切腹場所や、殉職した家臣の碑もある。数々の攻城で鍛えられたこのイマジネーション力。前情報ほど、想像は大変ではなかった。さて、公園内の資料館に入る。資料館は2階建てだがプレハブ小屋のように小さい。公園内資料館でスタンプ押印。水攻めの資料をさらっと眺め、資料館を出る。本丸跡まで歩を進め、そこで余裕を待って駅へ戻る。予定通り12時31分電車に乗って出発。

 と、ここで、反対方向の岡山方面に乗ってしまったことが判明。愕然。次の吉備津で降りる。どうしよう。吉備津の稲荷交通に電話して配車してもらう。地元のタクシー会社の近くだったことが、不幸中の幸い。結局、総社ではなく、吉備津からタクシーで鬼ノ城ビジターセンターに向かうことになってしまったが、傷は浅く済んだ。

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