千早城

Basic information
name千早城
another name金剛山城 楠木詰城、千早のかくれ城
selected100名城 55
location大阪府南河内郡千早赤阪村千早

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Data




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Record

攻城日時

2020年2月2日

攻城手段

近鉄長野線→バス(金剛バス)→徒歩

攻城記録

 大阪府の100名城、千早城。南北朝時代に楠木正成によって築かれた。本城である上赤坂城の詰城であるが、守りの固い堅牢な山城で、楠木7城の一つ。千早城の戦いでは、楠木正成が奇策を使って籠城し、鎌倉幕府軍を退けたことで有名。

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 千早城について知るには、千早城の戦いと元弘の乱を押さえておかなければならない。
 ※千早城の戦い
 元弘の乱にことを発する、1333年(元弘3年、正慶2年)の後醍醐天皇による鎌倉幕府の討幕運動に呼応した楠木正成VS鎌倉幕府軍の戦い。奇策を用いた楠木正成がチート級の強さを発揮し、籠城戦を制し、鎌倉幕府軍に勝利。
 ※元弘の乱
 1331年から1333年にかけての、後醍醐天皇VS鎌倉幕府の戦い。鎌倉幕府が滅亡する切欠となった戦い。まずは少し遡る。元弘の乱の10年ほど前に、そもそも正中の変(1324年)があり、後醍醐天皇は討幕未遂事件を起こしていた。つまり元弘の乱は、正中の変のリベンジ。後醍醐天皇は南都北嶺(比叡山、興福寺など)を味方につけ慎重にことを進めていたものの、家臣の吉田定房により討幕運動がリークされる。2度目も失敗、かと思いきや、これをきっかけに後醍醐天皇と鎌倉幕府は全面戦争に突入。後醍醐天皇は笠置山に移動し、鎌倉幕府の六波羅探題軍と対峙する。笠置山は要塞、なかなか落とせない。そうこうするうちに楠木正成なども討幕に呼応して起ち上がる。最初は討幕軍の劣勢?楠木正成の赤坂城は、自ら火をつけ一旦は鎌倉幕府の手に落ちる。後醍醐天皇も1332年に結局捕らえられ隠岐に流される。しかしこの後の展開が、承久の乱の後鳥羽上皇とは異なる。戦いは終わらなかった。各地で討幕のために蜂起している情勢はもはや鎌倉幕府にも止められない。奪還した赤坂城と千早城の楠木正成と吉野の護良親王VS鎌倉幕府の構図となる。圧倒的な軍勢の差により、またもや赤坂城は落ち、吉野も陥落。しかし、楠木正成は千早城に籠城し、継戦。楠木軍たったの800人、対する鎌倉幕府軍は10万人。しかし、楠木正成の奇策に次ぐ奇策と兵糧攻め対策で、鎌倉幕府軍は千早城を落とせない。落とせず長引くと大軍を維持している鎌倉幕府軍の方が不利になる。案の定、鎌倉幕府軍の兵糧が尽きてくる。さらには後醍醐天皇が隠岐から脱走。さらにさらに各地で討幕の軍が勃発。鎌倉幕府軍にとってかなりの情勢悪化。そして、ここで大事件が起きる。脱走した後醍醐天皇を打つべく派遣された鎌倉幕府軍の足利尊氏が突如、後醍醐天皇側に寝返る!そしてそのまま六波羅探題に攻め込み、六波羅探題が陥落!怒涛の急展開。軍の本拠地の京都、六波羅探題が滅亡した鎌倉幕府軍は千早城を攻めている場合ではない。撤退。急展開はここで終わらない。関東で新田義貞が蜂起し、鎌倉幕府の本拠地、鎌倉を襲う。北条高時は東勝寺で自害し、ここで鎌倉幕府は滅亡する。東勝寺の戦いで、元弘の乱も終わりを迎えた。たった2年間の元弘の乱だが、かなり展開が速く密度も濃い。後醍醐天皇の脱出、楠木正成の強さ、六波羅を落とした足利尊氏の寝返り、鎌倉を落とした新田義貞の裏切り。この4点が元弘の乱のポイント。  

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 さて、千早城。本日3城予定の最初、1城目。5時20分ふたば別館発。駅までは下り坂。外はまだ暗い。5時36分滝谷不動駅を出発(近鉄長野線5分/160円)。ちなみに近鉄線は交通系ICカードが使える。5時41分富田林駅着。富田林はコンビニや鳥貴族ミスドなどの飲食店はあるものの、ベッドタウン風なローカルな印象。北西口で降りたが、目当てのバス停がない。駅前にいた小柄なおじいさんに聞く。どうやら金剛バスは逆の西南口。移動。駅のロータリー2番乗場から、金剛バスに乗る。金剛バスは交通系ICカードが使えない。外はまだまだ暗い。6時5分発。住宅街を抜け、左へ右へカーブを繰り返し、バスは山道を行く。バスに揺られること30分ほど。6時39分終点の金剛山登山口着。10km、540円。バス停から少し引き返して下る形ですぐに登山道がある。

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 スタンプを押す予定のまつまさや豆腐屋さん、千早の風というカフェもあるが、時間はまだ7時前、全て閉まっている。千早城のある金剛山は、標高1120mの200名山の一つ。早朝から登山客の姿が多い。驚くのはこの時間に下山してくる人がとても多いことだ。御来光でも拝むのが流行りなのだろうか。すれ違う度におはようございますを交わし合い、登る。登山道の階段は舗装され歩きにくくはないが、溶けない雪も残っており多少滑りやすい。途中で右に折れ、登ること20分くらいか、裏参道から本丸跡の千早神社に到着。ここは標高634m。山麓の気温は4度だが、ここはもっと寒く感じる。千早神社もそうだったが、ここ千早城跡には、鎧を着せたわら人形がちらほら置いてある。わら人形は、楠木正成がゲリラ戦の時に用いた戦法のようだ。本丸跡には千早神社以外み特に目立ったものはなく、パネルもない。裏参道を引き返して、楠木正儀の墓を見にいく。この墓は、楠木正成の首塚という説もあり。ここまでで千早城は大体見つくした感があり、下山を開始。千早城の遺構自体はそれほど大きくはなく、小一時間あれば十分攻城が可能。籠城してゲリラ戦を展開するには格好の細道、土塁のような壁面の傾斜地で、楠木正成が鎌倉幕府の六波羅軍を退けることができた理由の一端を感じることができた。さて、下山して、8時頃にまつまさに到着。当然まだ開いてない。横の豆腐屋のおじさんがまつまさの人で、開店時間前に100名城のスタンプを押したい旨を告げると2回目の接触でシャッターを開けてくれ、中でスタンプを押すことができた。時刻は8時20分。一本早めることができたが、次のバスは9時。時間があるので周辺をぷらぷら歩く。朝は暗くて気づかなかったが、登山道以外にもすぐ近くには急な石階段の入口もあり、本丸跡の千早神社まで最短で行けるルートがある。25分と書いてあるが、おそらくもっと早いだろう。試しに石段の触りだけ登ってみたがかなりの傾斜。太腿の筋肉が悲鳴をあげたので、すぐに戻る。金剛バスのバス停ベンチでバスを待つ。ここは南海バスと金剛バスと二つのバス会社の停留所が近接している。ベンチで待っていると、寒いからストーブに当たったら?と駐車場管理のおばあちゃんが親切にも声をかけてくれた。お言葉に甘えてストーブに当たる。石階段にかかる小ぶりなオレンジ色の実は渋柿で、それを写生にくる人もいること、気温が4度くらいで寒いこと、金剛山は雪も残っていて滑りやすく、先日も滑って転んだ人が救急車で運ばれた、なんていう話をおばあちゃんは聞かせてくれた。そうこうするうちにバスが到着。金剛バスで富田林駅に戻る。

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