越前大野城

Basic information
name越前大野城
another name亀山城
selected続100名城 138
location福井県大野市城町

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Data




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Record

攻城日時

2020年9月12日

攻城手段

JR越美北線(えつみほくせん) ※通称 九頭竜線

攻城記録

 福井県の続100名城、越前大野城。大野市の中心部にある亀山(標高249m)にそびえる平山城。麓には城下町が広がり、また四方を山々に囲まれた大野盆地にあるため、この城下町が雲海に包まれ亀山だけが浮かんで見える日がある。「天空の城 越前大野城」と呼ばれる所以である。標高が低いのに天空の城になるということは、雲海の下がすぐ城下町であるということ。雲海が広がって次第に町が隠れていくさま、晴れて姿を現していくさまは幻想的な光景らしい。越前大野城の開館時間は9月までは9時からだが、10月からは6時からと早く開く。早く開けるのはカメラ小僧の方々が多く集まってくるからだろうか。※パンフ等から引用。
 金森氏の後は城主交代もあり、江戸時代に入ると大野藩として独立。1682年(天和2年)に譜代の土井利房が城主となり、以後幕末まで土井氏の藩政が続く。※ガイドブック等から引用。

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 越前大野城は、天正4年頃(1576年頃)、織田信長から大野郡の3分の2を与えられた金森長近により、4年の歳月をかけて築城された。大野城は2層3階建の大天守、2層2階の小天守、二の丸、三の丸があり、外堀・内堀をめぐらし城を守っていた。その石垣は野面積みで、石を立てず横に寝かせ大きい石を奥に押し込んで積む貴重な史跡らしい。
 金森長近は、大野城築城と並行して城下町を造った。長近は城下町建設の名手で、京都の町割りを習い碁盤目上にし、また上下水路を張り巡らせた。
 金森長近の生まれは美濃の多治見。父の失脚で美濃→近江と移り、18歳のころ尾張国の織田信秀に仕官し、後を継いだ織田信長にもそのまま仕えた。その後、美濃攻略に従って功があり、赤母衣衆として抜擢され活躍した。その後、長篠の戦いや越前一向一揆などで戦功を重ねた結果、天正3年(1575年)、越前大野郡に所領を与えられた。その後は信長の柴田勝家の軍団に属した。天正10年(1582年)本能寺の変で信長が明智光秀に討たれ(この際、嫡男金森長則は織田信忠と共におり討死。そのため長屋景重から可重を養子にとった)、勝家と羽柴秀吉が対立すると、柴田側に与したが、天正11年(1583年)賤ヶ岳の戦いで勝家が秀吉に敗れて自刃すると、剃髪して降伏し、秀吉の家臣となった。
その後は小牧・長久手の戦いや佐々成政征伐、さらに姉小路頼綱の飛騨討伐などで功績を挙げたため、天正13年(1585年)、秀吉から飛騨一国を与えられた。文禄3年(1594年)頃には秀吉の御伽衆を務めたという(太閤軍記)。
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いでは可重とともに東軍に与し、戦後美濃国郡上八幡城攻めなどの功を賞されて二万石を加増、初代高山藩主となる。
長近は茶の湯の才にも秀でており、秀吉から利休の嫡男である千道安をかくまったともされる。

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 さて越前大野城。8時に旅館あさひを出発、城とは逆方面に少し戻り寺町通りを歩く。古いお寺を流し見つつ、五番、四番、三番、二番、本町通りと西へ進む。金森長近が整備した碁盤目状の町割りは今も確かに残っている。今日は快晴で暑い。背中にチリチリ太陽を感じながら歩く。まだ開いていない時間帯のため、土井家、内山家など武家屋敷を通りから覗きながら歩く。ふと顔を上げると、小高い山の上に小さく越前大野城が見える。亀山は確か250m程度でそう大きくはない。亀山の手前に「めいりん」という石碑が設置された学校がある。広大な敷地に平家のおしゃれな学校だ。藩校の明倫館の跡地なのだろうか、廊下も教室も全てガラス張りで、通りからも机や椅子など中の様子を伺うことができる。ここの先生は下手にサボれないだろう。その学校横の神社から越前大野城まで20分という立て札がある。神社の奥まで進み左に折れると、城に続くなだらかなにカーブした大手道が現れる。

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 セミが鳴き、かわいいヘビも出てくる。百間坂、だったろうか、昔の大手道らしい、基本なだらかにカーブした道を登り、途中途中に現れる近道となる石段を使いショートカットしながら登っていくと、ほどなく天守閣が見えて来る。平山城だけにそう疲れはない。昨日の小谷城はくたびれた。天守は1960年くらいだったろうか、復興天守。しかし石垣は当時のまま。野面積みのしっかりした石垣である。時刻は9時を少し回った。天守は9時からのため入れるが、まずはぐるっと一周して様々なアングルから写真を撮る。空が青く、天守が映える。そして9時10分頃天守内へ。検温し、スタンプを押し、入る。4階まであったか、金森長近や土井氏などにゆかりのある遺物や資料を見て勉強しつつ最上階へ。最上階は高欄になっていて外に出て四方を眺めることができる。フェンスがあるが、眺めるために、または写真用に、ある高さの部分だけフェンスが中抜きされている。親切。一頻り写真を撮る。こう見ると越前大野は盆地なのだとよくわかる。碁盤目状の区画は上からだとよく確認できないが、山々に囲まれたきれいで静かな街並みは心を奪われる。ちなみに展示物の中に笏谷石製の鬼瓦があった。ここにも笏谷石。福井一帯は昔から笏谷石の恩恵を受けているのだ。さて時刻は9時40分、駅方面に向かって出発。結ステーションなどは素通りし、七間通りを東へ進む。10時過ぎに駅に到着。10時13分、JR九頭竜線の乗り一乗谷に向かう。全体としても越前大野はよいところだった。1日かけて街並みを歩き、ゆっくり観光するのもよいかもしれない。

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today's ramen

『ひろけん』 (越美北線 越前大野駅) 醤油串カツ(カツ丼はない)、タラ茶漬けなど



impressions

 前日の20時に越前大野着。駅を降りてその暗さにびっくり。街灯などほとんどなくて本当に暗い。コンビニがないどころの感じではない。店もないのでは、と不安がよぎる。醤油カツ丼目当てでお目当てだった「梅林」に行くも、新型コロナで営業時間変更、20時で閉まっていた。仕方なく栄えているはずの城方面に歩くも真っ暗な市街地に店の明かりは全くない。しばらく歩くと一つポツンと明るい看板があった。亀平(きへい)。別店舗のラーメン屋と繋がっている様子。そのラーメンのおねえちゃんに営業時間と醤油カツ丼あるかと聞くと愛想よくちょっとまってと亀平に聞きに行ってくれた。申し訳なさそうな顔で戻ってきて、カツが切れていて無い、でもたれソースはある、ビンに入れて持ち帰ってもらうことはできる、と。お礼と保留の意を伝え店を後にする。トラベラーにビンでタレだけ持ち帰らせてどうせよというのか、土地の習慣なのか、おもしろい。他の店を当たろうと出るも、やはりない。旅館に先に行き、飯屋とコンビニを聞く。飯屋は、、ほんとないのだろう、「亀平と、ひろけんさんくらい」しかないらしい。暗い中、宿から歩いてそのひろけんに行く。
 店内は地元の方々だろうか、カウンター以外はほぼ満席。醤油串カツ(カツ丼はない)、タラ茶漬け、枝豆、ヨーグルト酒など注文。どれもうまかった。醤油串カツは普通にうまい。タラ茶漬けは何故かタラが確認できなかったが細薄切りのイカが入っていてとてもうまい。居酒屋なのにメニューがかなり豊富でしっかり食べられるという旅館の女将の話はその通りであった。疲労もあり長居はしなかったが満足。



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