江戸城

Basic information
name江戸城
another name江城(コウジョウ) 千代田城
selected100名城 21
location東京都千代田区北の丸公園

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攻城日時

2018年4月7日
2018年5月20日
2020年2月23日

攻城手段

半蔵門線 徒歩

攻城記録

 東京の100名城、江戸城。言わずもがなの日本最大の城。広さは内郭が(西の丸の皇居と皇居外苑を合わせると)230ha。広い。ちなみに、大阪城106ha、仙台城44ha、名古屋城35ha、姫路城23ha、熊本城20ha。大阪城公園の2倍、姫路城の10倍である。圧倒的にずぬけて広い。内堀の中だけでも比類なき広さなのだが、内堀と外堀の間である外郭も合わせた総構えの広さは、いったいどれくらいあるのだろう。JR総武線の四谷駅から、市谷、飯田橋、水道橋、お茶の水辺りのラインが総構えの円の上半分ほど。山手線の神田駅から、東京、有楽町、新橋辺りまでが右ライン。虎ノ門駅や赤坂見附辺りが下ライン。中央区と千代田区がすっぽり入るくらいに、とにかく広い。飯田橋や虎ノ門、赤坂見附など、以前に見附巡りをしたことがあるが、とにもかくにも江戸城とは広い。天守閣にしても高い。一番高かった徳川家光時代の寛永天守は45m。ちなみに、大阪城42m、名古屋城36m、姫路城32m、松本城25m。江戸城の寛永天守は日本の城の中でも最も高い。天守台を合わせると58mで、ビル20階の高さに相当するらしい。当然鉄筋コンクリではなく木造、そのすごさがわかる。

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1590年(天正18年)、豊臣秀吉の命令で徳川家康が江戸に入る。当時の江戸は湿地帯にススキが広がる未開の原野。不毛の地への転封であり、実質的な左遷。さて、その江戸の地だが、家康が江戸入りしたこの時には既に江戸城はあった。1457年(長禄元年)に太田道灌が築城し、1524年(大永4年)以降に後北条氏の家臣遠山氏が改修した前身の江戸城である(さらに遡れば鎌倉時代には江戸氏館があったそうだ)。遠山氏が改修した城は、土塁と簡素な館がある程度だったそうな。家康が本格的な築城を開始したのは13年後の1603年(慶長8年)3月以降。2月に征夷大将軍に任命され、将軍に相応しい城とすべく整備を開始した。1604年(慶長9年)家康がまず命じたのは、石垣に使う石の切り出しと木材の調達、石材を運搬する石船の建造。この天下普請。命じた大名はほとんどが西方の外様大名(森忠政、浅野幸長、池田輝政、福島正則、加藤清正、毛利秀就、加藤嘉明、蜂須賀至鎮、細川忠興、黒田長政など)。幕府は石船3000艘の建造費を配布するもその他の費用は全て各大名の自己負担。採石場は、東伊豆、根府川、早川、真鶴など。石船で運んだ。
 1606年(慶長11年)から江戸城の普請が本格スタート。縄張りの担当は藤堂高虎。大名屋敷や商業地のために日比谷入り江を埋め立てや物資搬入のための運河の整備は加藤清正、福島正則、伊達政宗、前田利長ら。その他、本丸の造営、天守台の普請も行った。1607年(慶長12年)に天下普請はひと段落するが、家康はこの時、駿府城普請も同時に行っていた。1606年(慶長11年)に家康は将軍を秀忠に譲ると、駿府城の普請にも大名を駆り出す。次いで篠山城、亀山城、名古屋城の普請と、西国大名に次々と普請を命じていった。1614年(慶長19年)大坂冬の陣、1615年(慶長20年)大阪夏の陣で、家康はついに豊臣家を滅亡させる。その後秀忠により一国一城令、武家諸法度が制定される。幕府の体制基盤が作られた翌年の1616年(元和2年)4月17日、家康は75歳で死去。江戸城の築城は秀忠に受け継がれる。
 秀忠期の普請は、譜代大名も負担を課せられている。秀忠は、尼崎城や高槻城を修築。また明石城を本多忠政に築かせ姫路城とともに山陽道の押さえとする。また福山城を水野勝成に築かせ、西国大名の睨みとした。そして1620年(元和6年)には伏見城を廃し、大阪城の築城を藤堂高虎に命じて開始。したがって、江戸城の築城は、大阪城と二条城の築城と並行した三都構想だった。
 家光期の普請は、秀忠のための西の丸御殿の改築に始まり、地震被害の石垣の改修、二の丸の拡張、本丸御殿と天守台の改造など。1636年(寛永13年)に江戸城総構えが完成。家康が開始した築城工事は、35年後の1638年(寛永15年)3代家光の時に完成、ということになる。

 

時は移ろい、1868年(慶応4年)4月11日に江戸城は無血開城。1868年(明治元年)10月13日に明治天皇が入城すると、江戸城は東京城と名を改めた。明治天皇は本丸ではなく西の丸に入城。本丸御殿は度重なる焼失で既になく、二の丸御殿も1867年(慶応3年)に焼失しており、この時すでに政治の中枢は西の丸に移っていたからだ。その西の丸御殿も1873年(明治6年)に全焼。1888年(明治21年)に明治宮殿が竣工。明治宮殿は新政府によって「宮城」と改称された。その宮城、明治宮殿も東京大空襲で全焼。この際、伏見・多聞櫓は奇跡的に焼失を免れた。再建された宮城は1948年(昭和23年)に皇居と改称され現在に至る。
 さて、話を江戸城に戻す。明治天皇が入城して2年、1870年(明治3年)からは、桝形門の渡櫓など幕府の権威の象徴となるような建物は取り壊されていく。明治5年には新政府が防衛上必要であると見なした城門や石垣以外はすべて破却。富士見櫓、北桔橋高麗門、数寄屋前多聞櫓をのぞき、残存していた櫓や城門、塀はすべて破却された。

 

天守閣について

 

『慶長天守』
  江戸城の天守閣は、計3回建てられた。最初の1回目は初代将軍家康の時。1607年(慶長12年)に『慶長天守』。覇権が秀吉から家康に移ったことを誇示するような、それまで最大だった大坂城天守を超える大きさの天守であったと言われている。一方で大坂城とは違い、清楚で簡素な城だったようだ。現在の天守より200m南にあった。黒漆喰の大坂城天守に対して、漆喰の白壁。富士山のようだったそうな。

 

『元和天守』
  2回目が2代目秀忠の時。1623年(元和9年)に建てられたため、通称『元和天守』。図面や記録が残っておらず、その姿形は不明。本丸御殿を拡張することに伴い、天守も北に移動するために作り直した。位置も正確には不明だが、現在ある天守台の場所にあった説が有力。

 

『寛永天守』
  3回目は3代目家光の時。1638年(寛永15年)に建てられたため、通称『寛永天守』。家光の権威を誇示するために、元和天守を取り壊して、新たに寛永天守を築造。この家光の寛永天守は巨大で、現在の姫路城を凌ぐ日本最大の城だったという。5重5階地下1階。天守台を含めると59m。姫路城が46mであるため、相当高い。位置は元和天守とほぼ同じながら、90度回転。外観は黒。黒色の錆止めを塗った銅板が貼られていた。江戸において銅は超高級素材。さすが将軍の天守。しかし完成から19年後、家光没6年後の明暦の大火で焼失。4代家綱は再建を検討したが、保科正之の「実用性に乏しい天守再建はムダ」という意見で、再建はなしに。権力の誇示でしかない天守は、当時の江戸幕府にはもはや不要であったとも考えられる。ちなみに本丸に残る天守台は、加賀藩前田家の5台綱紀によって、明暦の大火後にすぐに積み直された。高さは遠くからの見栄えを考慮して2mほど低く積まれたそうな。それまでの伊豆石ではなく、瀬戸内海の御影石をはるばる運んで使用。加工した小さな石を散りばめるなどスキルとセンスが光る。

※参考:萩原さちこさん「江戸城のすべて」

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 さて、江戸城。9時30分過ぎに渋谷から半蔵門線で永田町駅まで行く。予定ではそこから有楽町線で桜田門駅まで行くつもりだったが、永田町で降りる。永田町と言えば国会議事堂、国会議事堂と言えば井伊家の上屋敷跡(江戸初期は加藤清正の屋敷)。ということで、これは2回目なのだが、桜田門外の変の井伊直弼の視点で再び歩いてみたくなり、永田町で降りる。ここ永田町から桜田門は電車では1駅、徒歩でもすぐの目と鼻の先。警察官に遠慮しつつ国会議事堂を柵越しに少し覗き見してから、いざ出発。国会議事堂の前(東)に「国会前庭公園」があり、井伊家の上屋敷跡はここ。日本水準原点を流し見つつ公園内を江戸城方向に歩く。井伊家上屋敷だった名残りは残っていないが、公園内の東端、内堀通り手前に「櫻の井」という江戸時代の名水井戸があり、この辺りが井伊家上屋敷表門だった。つまりは、ここが桜田門外の変における井伊直弼のスタート地点。スタート地点ですでに視界は開けていて、眼前に広がる内堀の桜田濠のその奥に外桜田門が見えている。駕籠になんか乗らずともすぐに着いてしまう距離だ。向かって左奥が半蔵濠、正面から右が桜田濠。今は令和2年2月23日午前10時。天気は穏やかな晴天。気温は15度。空の鮮やかな水色、水堀の青緑、皇居の深緑色を背景に、白梅や紅梅が鮮やかに咲きほころび、何とも気持ちがいい。桜田門外の変は、160年前の3月24日午前9時に起きた。丁度1か月先の1時間前。当時と今は気候も違うのだろうか、当日は雪が舞う寒い朝だったそうだ。

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 1860年3月24日、旧暦では安政7年3月3日、ちょうど雛祭りの日だった。幕府の家臣が必ず総登城するこの日を、水戸藩浪士たちは狙った。「大名武艦」という大名家のガイドブックを手に持ち、登城する大名を見物する田舎侍を装い、見物客で賑わう人込みに紛れ、井伊直弼の駕籠を待つ。そして襲撃。井伊直弼にしてみたら、自分のうちを出てからいつも10分足らずで江戸城に入城していたわけだから、この短い距離とこのタイミングを狙われるとは思ってもみなかっただろう。外桜田門の変は、外桜田門にかかる内堀の橋に入る最後のカーブで起きた。直弼は屋敷を出ればすぐに見える外桜田門に到着することなく、ここで襲われその生涯を閉じた。当時は長らく続く泰平の世で、襲撃された駕籠内の直弼は、まさか今ここで、と絶句したであろう。周りの大名見物の町人らも、パニックに陥ったであろう。ちなみに、殉職した彦根藩士の墓は豪徳寺に、水戸藩浪士の墓は回向院にある。
 さて本日のテーマは、3つの櫓、3つの門を見ること。伏見・多聞櫓、巽櫓、富士見櫓、外桜田門、清水門、田安門。そのうちの一つ、外桜田門にまずは到着。1923年(大正12年)の関東大震災で門が壊れるも再建され現在に至る。
 さて、外桜田門から内郭に入り、二重橋へ移動。二重橋から伏見・多聞櫓を拝む。今までは二重橋に注目が行き見落としていたが、奥の茂みの上に櫓が見える。伏見櫓は西の丸の皇居にあり、おそらく二重橋付近が一般人が近寄れる限界なのではないか。できれば間近で見たいものだが。ところで本日は令和天皇60歳の誕生日。新型コロナウィルス流行のため一般参賀は中止となっており日本人はまばらにしかいない。そんな中、日の丸の旗を掲げた黒スーツの中年15人ほどの集団が二重橋の撮影スポットに到着。おもむろに記念撮影をし、全員で天皇万歳を叫び、再び隊列を組んで去って行った。その行き先には街宣車。観光の外国人は多少呆気にとられていたが、日本の日常風景と捉えたのかその行進を記念撮影していた。
 続いて、坂下門へ。この坂下門を左にして立ったその正面、右前方面には、往時は長大な箪笥多聞櫓と蓮池三重櫓があった。蓮池三重櫓台は今でも残っており、その大きな櫓台は存在感を放っている。左から坂下門、蓮池二重櫓、箪笥多聞櫓、蓮池三重櫓、、と頭の中で当時を想像して楽しむ。
 続いて、巽櫓へ。内堀に立ち、巽櫓を側方から眺める。このスポットは有名で、巽櫓の東側から西方面を臨むと、巽櫓、桔梗門(内桜田門)、富士見櫓、と一直線に拝むことができる。 2重櫓の巽櫓は、他の櫓同様に装飾性が高くて立派。そんな目立たせたらその下を通らないだろ!と突っ込むことができるくらいの石落としも、実践を想定したものではなく、その防御性能を顕示するためだったのだろう。
 そして、大手門へ移動。いよいよ大手門から城郭内へ。大手門から後ろを振り返ると、前後の対比がおもしろい。後ろには大手町、東京駅方面のビル群が居並ぶのに対し、前には江戸城の大手門。ちょっとしたタイムスリップ感を味わうことができる。ここではくるくる振り返りながら入城することをお勧めする。
 さて、大手門から三の丸へ。同心番所、百人番所などを流し見つつ、中之門方面へ。中之門は石垣しか残ってはいないが、やはり江戸城は石垣がとてもおもしろい。江戸に入ってからも30年かけて造られ続けたお城は、石垣も日本最高峰の技術をもって作られている。ほぼ全てに巨石を使い、切り方は精巧な切込剥。乱積みでも6面ぴったりな亀甲積みだったり、布積みでも几帳面にラインを揃えており見る者を唸らせる。また花崗岩の白さと安山岩の黒さがモザイク調の美しさを醸し出し、思わず目を引く。石垣群は見ていて飽きが来ない。
 さて、中之門はまだくぐらず、まずは手前を右折して二の丸方面へ進み白鳥濠に行く。白鳥濠は江戸城最古の1607年の石垣を見ることができる。さすがは江戸初期の石垣。打込剥で目が荒い。中之門付近の切込剥エリアからちょっと進んだだけで全く異なる石垣群を拝むことができる。
 白鳥濠から中之門に引き返す。白鳥濠と中之門の間には、全面にきれいな「すだれはつり」が施された石垣群がある。すだれはつりとは、石垣の表面をノミを使ってつぶつぶの縦じまに仕上げたもの。泰平の江戸時代、実際的な防御力よりもこうした意匠の凝らし方で幕府の権威を顕示したのだろう。
 さて、中之門をくぐり、本丸方面へ。この辺りの石垣は、石垣の角の稜線をきれいに整形して整えている。いわゆる「江戸切り」。江戸切りを下からのアングルで見上げると、頭上から刃が迫ってくるかのようだ。
 そして、本丸跡に到着。ここは当時は、表、中奥、大奥と、縦に配置された広大な本丸御殿があった。奥に天守台も見える。と、ここで何やら立ち入り制限の案内が。大嘗祭の片づけ工事で2月末まで立ち入り禁止と書いてある。ちょうど中奥と大奥の境目くらいだろうか。それより北に立ち入ることができなかった。残念だが、天守台は何度か見学したこともあることだし仕方ない。
 本丸御殿跡から南へ引き返し、浅野内匠頭の松の廊下を経由して、富士見櫓へ。富士見櫓も何度か見学はしているが、歴史的に価値の高い現存3重櫓と認識して見るのは初めて。ものすごい逆光にくじけそうになりながらも、隅々まで見る。このアングルは富士見櫓の内側。櫓の装飾は本来外向きに施されるため、名古屋城の西北隅櫓などと同様に内側からのアングルでは、ややもの足りない。本当なら石垣と櫓台の上にそびえる姿を外側から拝みたいものだが、外側は皇居の西の丸との境。一般人は立ち入れないだろう。残念。位置的には、桔梗門から入城することができれば、下から富士見櫓を拝むことができるのだが、、。偉くなって表彰で皇居にご招待された暁にはぜひに、、と思う。ちなみに江戸城には3重櫓が、本丸に5棟、二の丸に3棟、計8棟あった。そもそも3重櫓は天守代用櫓にもなり得るため、一つの城にそんなにいくつも作るわけではない。尚、江戸城には1階建ての平櫓は一つもなかったそうな。さすが徳川幕府の城。
 さて、3つの櫓も見たことだし、まだ見ていない残る二つの門、清水門、田安門へと向かう。先ほど書いた通り、大嘗祭の後片付け工事のため、いつものように天守台横を通って北桔橋門(きたはねばし)に抜けることができない。一度中之門に戻り、そこから二の丸方面に北上する形で迂回し、天守台の裏側に出て、北桔橋門から平川濠を渡り、北上し、科学技術館を過ぎて右折。清水門に到着。この清水門、実は初めて目にした。広めの石階段が桝形に折れ、清水門がある。この辺りには刻印石が多く、一頻り見て歩く。
 清水門から引き返し、武道館横を通り北上し、最後の田安門へ。この田安門は何度も通っているが、重要文化財指定としてじっくりは拝んだことはない。ここも一頻り見学。時刻は13時。歩きづめで少々疲れた。本日の攻城は終了。千鳥ヶ淵を渡り、九段下駅へ。

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today's ramen

『鯛塩そば灯花 本店』 (都営新宿線曙橋駅) 鯛ラーメン 鯛茶漬けセット 1250円



impressions

 本日はラーメンに行けなかったので、2週間前に訪れた鯛ラーメンのお店をアップ。本日の攻城を終え電車に乗った九段下駅から新宿線で2駅の曙橋駅にある、というくらいのつながりだが、、。さらに強いて江戸城とこじつけるのであれば、ここは王様のブランチで新店ランキング1位を獲得した店。1位といえば江戸城。それくらいのこじつけが限界、、。
 曙橋駅から南へ。3分ほど上り坂を歩くと提灯がある。鯛ラーメンの店、灯花。 鯛ラーメン 鯛茶漬けセット1250円を食す。
 いや、うまい。鯛スープが薄いとコメントしていたサイトもあったが、十分な真鯛の香りと旨味。透き通ってきれいなスープは、厳選した宇和島産真鯛で出汁をとっているらしい。麺は、信州産小麦を使用したコシとしなやかさが同居した細麺。宇和島や信州や、、全国の大名に普請をさせたところも、江戸城との共通点か、、。焼豚、青葱、穂先メンマも歯触りがよい。梅の花麩もきれい。柚も乗っていたか。
 食後は、ごまダレに和えた鯛の刺身をご飯に投入し、ラーメンスープをかける。茶漬けの完成。いや普通にとてもうまい。ラーメン食べるにしては、お値段がちょっとするけどね。



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