Photo
Data
- 築城年: 1866年(慶応2年)
- 廃城年: 1869年(明治2年)
- 城郭タイプ: (稜堡式)
- 天守タイプ: なし
- 築城主: 徳川幕府(13代家定)
- 主な城主: なし
- 関係する武将: 武田斐三郎 備前の喜三郎 榎本武明 土方歳三
- 主な遺構: 土塁 石垣 堀 兵糧庫 ※復元〜奉行所、土蔵、板庫
- 主な石垣のタイプ: 切込剥 乱積み
Map
Record
攻城日時
攻城手段
攻城記録
北海道の100名城の一つ、道南の函館市にある五稜郭。榎本武揚や土方歳三が立て籠もった箱館戦争で有名。
▼read more!
1853年(嘉永6年)ペリーが黒船で来航。幕府は開国を迫られ、翌1854年(安政元年)日米和親条約を結び、下田と箱館(江戸時代までは函館は「箱館」と呼ばれた)を開港。アメリカに続きイギリスとロシアにも開港。開港した箱館には、対諸外国用に箱館奉行所が置かれた。当時の箱館奉行所は函館山の山麓市街地、つまり函館沿岸にあったのだが、沿岸の寒さや、外国人の目につきすぎるために権威が損なわれること、有事の際に外国船からの砲撃の的になってしまうなど、諸々の理由で沿岸から内陸に移動。…ということは、五稜郭はそもそも城ではなく奉行所として設置されたもの。内陸に移動する際に、武田斐三郎が築城の指揮を執る。武田斐三郎は、箱館を訪れていたフランス人から、西洋城郭都市の設計を教わりそれを参考に築城に着手。1864年(元治元年)完成。「箱館御御役所(おんやくしょ)」通称「箱館奉行所」と呼ばれた。または築城時の地名から「柳野城」とも呼ばれた。ん?やはり城なのか?
1867年、大政奉還。戊辰戦争始まる。京都で起きた鳥羽伏見の戦いから、江戸城無血開城まで、新政府軍は東へ東へ進む。旧幕府軍の海軍、榎本武揚は、当時最強の軍艦「開陽」を江戸湾沖に停泊し無傷の幕府艦隊も集結させる。新政府軍からの再三の軍艦引き渡しにも応じずに、江戸湾沖で待機。10分の1ではあるが徳川家が駿府を保証されることを知ると、開陽の榎本武揚らは、江戸湾を脱走。江戸城無血開城を潔しとせず新政府軍に反感を持つ藩が多い東北へと北上。奥羽越列藩同盟の支援のため、宮城県の松島湾に寄港する。しかし奥羽越列藩同盟も瓦解寸前。同じく北上し東北地方を転戦していた土方歳三ら新選組など旧幕府軍を味方に引き入れ、開陽は蝦夷地へと向かう。旧幕府軍は3000人ほどに膨れ上がった。箱館港は外国の商船など多く停泊しており、そこを避け、1868年(明治元年10月20日)内浦湾(噴火湾)沖に停泊、そこから道南に上陸し南下。当時、明治新政府の箱館府(箱館裁判所から改称)のある五稜郭に向かう。仕事を失った旧幕府の家来らのため蝦夷地開拓を嘆願書を提出しようとしたが叶わず開戦。戦いの経験豊富な旧幕府軍が五稜郭を占拠。
1869年(明治2年3月9日)新政府軍、品川沖から蝦夷地に向けて出航。5月11日、箱館と五稜郭を残すのみとなった旧幕府軍に、新政府軍が総攻撃。函館山の裏の断崖を登り奇襲、函館山から一気に市街地を奪還。函館湾から軍船による援護砲撃もあり、五稜郭に迫る。五稜郭から出撃した土方歳三は銃撃を受け死亡。箱館湾の旧幕府軍の軍艦も全滅。ちなみに開陽はそれ以前の戦いで座礁すでに沈没している。新政府軍の軍艦は湾の奥深くまで進み、五稜郭に向けて「甲鉄」のアームストロング砲で砲撃。大きな被害を与え、旧幕府軍の戦意を奪う。5月18日、榎本武揚ら旧幕府側のブレインが投降。徳川家臣団の蝦夷地開拓の夢はここで潰えた。旧幕府軍800人、新政府軍300人の犠牲者が出た。ちなみに、榎本武揚らは1872年(明治5年)に釈放され、北海道開拓使を皮切りに明治政府の要職を歴任、大臣としても活躍した。
その後の五稜郭は、道民によって利用された。一時期は、水堀の結氷を利用し採氷事業が軌道に乗り、明治4年採取した氷670tを本土各地へ送り出し、アメリカの高価な輸入氷を市場から追い出し、函館の一大産業になった。(以上、パンフや公式HPから抜粋)
五稜郭がなぜ星型なのかの理由について。理由は2つある。1つ目の理由は、防御の観点から。防御の死角をなくし十字砲火で敵を撃退できるようにするためである。2つ目の理由は、幕府そして日本の権威を誇示するため。奉行所は地方をまとめる幕府の出張所であるが、箱館奉行所は迎賓館的な格式。これは、交易を求めてやってくる諸外国に幕府の威を示したかったためであると考えられているそうだ。
その設計は、武田斐三郎。武田斐三郎は蘭学者で、航海術や軍事術にも長けた東洋のレオナルドダビンチと言われている。先日見たNHKの番組が、1856年フランス様式の図面と、1855年オランダ様式の図面と、どちらの図面を武田斐三郎は参考にしたのか?という内容だったのだが、形のルーツは謎らしい。しかし番組の考えは、オランダ様式。当時は幕末、オランダの書籍がたくさんあった。フランスの軍人の図面も見たかもしれないが、オランダの図面を参考にしたのだろう、と。番組では、街全体を星型の囲いで守っているオランダの要塞都市ナールデン等が紹介されていた。そもそも星型稜堡は世界にはたくさんあり、特にヨーロッパに多いらしい。五稜郭は、17世紀頃のメノ・ファン・クーホルンが設計したオランダ式の星型城郭に影響を受けた、とオランダの学者さんは言っている。同じくオランダ、ブールタング要塞都市も紹介されていた。1593年完成の要塞都市で、今でも70人ほどが暮らしている。このブールタング要塞都市の設計図が、五稜郭の設計図の一部と瓜二つだと言う。
さて五稜郭。天気は曇り。10時50分、空港からバスに乗り30分ほどで五稜郭タワー着。ちなみにバスはSuicaもPASMOも利用可能。まずは五稜郭タワーに登る。エレベーターで最上階へ。扉が開くとすぐに五稜郭の星型稜堡が眼前に広がる。手前に馬出し的な半月堡、奥に五つの稜堡、中央に箱館奉行所。遠景には空港や志苔館方面も拝むことができる。五稜郭の水堀は凍結していてまだらに白い。
▼read more!五稜郭タワー内は混雑しているが、五稜郭内の人の往来はまばら。タワー最上階を一周する。箱館戦争のパネルなど五稜郭の歴史がわかりやすく展示されている。土方歳三の像もある。視覚障害者向けの触察模型もある。一大観光地だけあって充実している。五稜郭をしばらく上から見下ろし、地上へ。実際に五稜郭内に入る。地上では星型稜堡の形はわからない。函館の気温としては今日はさほどでもないだろうに、水堀はやはり白く凍っている。石垣はさすが幕末の築城。きれいに整形された切込剥乱積み。品川台場(第五、第六)も担当した、石工棟梁、備前の喜三郎がここも担当しているらしい。石垣の上がはね出している西洋式石垣。武者返し、または「はね出し石垣」と呼ぶ。五稜郭の他では、品川台場、龍岡城、そして人吉城しかない。さて、まずは半月堡の土塁に登る。土塁に登ると、おぼろげだが星型稜堡の形を部分的に確認することができる。半月堡を降り、武田斐三郎の碑を歩き見て、箱館奉行所へ。箱館奉行所は2010年に再建された。写真はOKだが触れてはいけないルール。瓦も壁も出来る限り当時の技法を忠実に用いて再現している。奉行所トップ杉浦兵庫頭誠の日記が展示してあったり、楽しめむことができる。奉行所を出て、他の稜堡の土塁にも登り、また降り、散策する。土塁の上は特に風があり寒い。凍った水堀を見下ろし余計にさむくなる。時間は14時45分くらいか、五稜郭を出て、函館ラーメンあじさいへ。
▲close!today's ramen
impressions
五稜郭タワー近くの函館の名店、あじさいに入る。塩ハーフ550円を食す。数時間前にラッキーピエロでハンバーガーを食べたため空腹ではない。ハーフがあるのは珍しく、こういう時にありがたい。 うまい。冷えた体に染み渡る旨味のある塩味。道南産の昆布と、豚骨と鶏ガラをじっくり煮込み、雑味なく透き通ったスープ。オーソドックスなラーメンだけに、うまさがよくわかる。麩や味玉、メンマ、チャーシューも入って、どれも安定してうまい。