原城

Basic information
name原城
another name日暮城 春城 有馬城 志自岐原城
selected続100名城 188
location長崎県南島原市南有馬町丁

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Data




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Record

攻城日時

2020年3月7日

攻城手段

九商フェリー 島原鉄道バス

攻城記録

 長崎県の続100名城、原城。原城は、肥前日野江藩初代藩主キリシタン大名の有馬晴信の本城である日野江城の、その支城。1598年から1604年にかけ有馬晴信が築いた。島原半島南東部の海岸に突き出した小高い丘に築かれ、本丸、二の丸、三の丸、天草丸、鳩山出丸などの曲輪から構成されている。全体的には土塁の中世的構造の曲輪がベースだが、本丸のみは総石垣造りの近世初頭の城郭。本丸には櫓台や複数の門を伴う虎口が設けられており、支城である原城は実は本城である日野江城を上回る規模。海を背にした堅固な造りであった。

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 そもそも、有馬晴信は日野江城から原城に移ろうとしていたという見方もあるそうな。南蛮貿易の利を出すことに注力するために、口之津のある原城に居を移そうとしていたというのだ。
 しかし、徳川幕府が禁教を強める中、有力キリシタン大名であった有馬晴信は、岡本大八事件をきっかけに1612年に斬首される。息子、有馬直純の日向転封を経て一時天領になった後、原城は松倉氏の支配となる。しかしその後、1618年の島原城築城開始に伴い、原城は廃城となった。
 そして、そのおよそ20数年後、島原天草の乱が起きる。島原・天草両地区で圧政が続く中、台風や日照りで餓死者が続出。農民やキリシタンらの怒りが頂点に達する。1637年、16歳の天草四郎を総大将として蜂起。当初は一揆勢が優勢であったが、やがて守勢に転じる。天草勢も加わったため3万人余りが原城に籠城する。原城を選んだのはポルトガルの援軍を待っていたという説もあるそうな。しかし討伐軍の頭である松平信綱はオランダに沖から攻撃するように依頼。オランダはプロテスタント(新教国)、ポルトガル軍がもしきても応戦してくれる、という算段。何とも複雑な相関図。さて、幕府軍は12万人で取り囲むも、原城の堅固な守りで何度も攻撃に失敗。結局鎮圧したのは4ヵ月後であった。その後、原城は破壊され、一揆勢の無数の遺体が埋められた。
 1938年、原城跡は、島原天草の乱の舞台として国の史跡に指定される。最近の発掘調査で無数の人骨とともに、鉄砲玉を鋳つぶして作った十字架やロザリオの珠などの信仰具が、大量に出土している。

 ブラタモリ情報
 蓮池について。籠城の生命線である水を確保することができた、蓮池。すぐ目の前が海なのに、何故ここに池ができたのかについて解説してくれていた。原城は土台が水を通しにくい泥岩層。その泥岩層の上に、火砕流堆積物が積もり原城の丘を成している。泥岩層の上に火砕流堆積物が乗っているため、火砕流堆積物を通った雨水が泥岩層でストップして横滑りし、結果海の近くに池ができたそうだ。原城が籠城できたのは自然の神秘のおかげ。
 原城のある丘は、阿蘇山の火砕流でできた30mの堆積物。近くの雲仙ではなく、阿蘇山というのがすごい。阿蘇山は4回爆発したそうなのだが、その4回目の火砕流堆積物らしい。ASO4(アソフォー)。一揆軍の強さはASO4のおかげ。

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 さて、原城。今日は雨予報だがまだ降り始めてはいない。曇天の空を見上げながら熊本市街の白川沿いを、カプセルホテルから30分ほど歩き、熊本駅に到着。7時38分、熊本駅東口2番乗場から、熊本港に向かう。バスも交通系ICカード、Suica使用可。熊本港から九商フェリーで8時30分発。九商フェリーは全長65m、大きく立派な船だった。車両も積み込まれているのだろうが、広い客室内には数人しかおらずガラガラ。一番前のソファ席エリアの一番前に座る。暖かく快適。雨予報も今はまだ海面に明かりも差している。水平線に島原と雲仙岳がぼんやり見えている。熊本港から島原港間の所要時間は1時間。大きなフェリーなので揺れはなく、ゆっくり進むので、もしくは2階からの眺めなので海面から離れているためか、ゆっくり進んでいるように見える。景色はあまり変わらない。が少しずつ、雲仙岳が大きくはっきりしてくる。1359mの主峰である普賢岳もはっきりと徐々に茶色を帯びてくる。有明海を渡り、9時30分長崎県の島原港着。

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 9時42分、島原港2番乗場から、島原鉄道バス加津佐海水浴場行きに乗り出発。50分ほどバスに揺られる。昨日の大野城での無理がたたり、足裏は水膨れ。フェリー、バスと今日はここまではさほど歩かなくて済み、ありがたい。天気もまだ持ってくれている。島原半島の南部はコンビニはなく(途中に一軒だけヤマサキを見たくらいかな)田舎の風景なのだが、特徴として丸い石垣に囲まれた田畑が多い。10時30分、原城前バス停で降りる。910円。バス停を降りると、目の前に曲輪が広がっている。そこに見えているのは三の丸か。三の丸、二の丸、本丸と、丘を丸々使っており、丘全体が原城である。段状の土塁が連なる景色の中に、大きく原城跡と石碑がある。到着と同時に雨がぱらつき始めた。大手門から見学する予定だったが、雨足が強くならないうちにと、まず二の丸、本丸方面へ向かう。視界がよいネギ畑のウネウネ道を進む。この辺りが二の丸か。遠くに原城の本丸が見える。左を見ると有明海があり、段状の土塁や池の跡と調和してとてもきれいだ。この池の跡、蓮池という。原城の発掘調査では井戸は見つかっていない。原城が3,4か月間も籠城することができた、その生命線であった蓮池。城内に水が湧く池があり、籠城を続けるために必須な飲み水を確保することができた。
 さて、本丸跡に到着。本丸正面すぐ横に「ほねかみ地蔵」が祀られている。キリシタン一揆の戦没者の供養塔だ。手を合わせる。さて、本丸正面に戻る。本丸手前正面には大ぶりな石の石垣があるが、形が歪に崩れている。この正面右が大手門で礎石跡も残る。破壊されているが、桝形の跡も残る。原城は城そのものが強かったのだが、強さの理由のその一つが、幾重にも連続する桝形。本丸の奥にたどり着くためには、一度としてまっすぐに進むことができない。
 さて、本来のルートではないが、左へ回り、本丸方面へ進んでみる。ちょうど土塁の上を歩いていることになるのだろうか。同じく形の崩れた石垣が並ぶ。特に、角という角が壊され、裏込石があったであろうポコポコした穴まで剥き出しになっている。そう、原城の石垣は徹底的に破壊されたのだ。一国一城令での城の破却のような生やさしいものではない。二度と一揆で立て篭もられないように、徹底して防御機能を失わせるという執念を感じる壊し方である。その後に出てきた石垣も、角という角が全て入念に破壊されていた。石を前に取り出してその上から土砂をかけて埋めるという念の入れよう。正規ルートである、本丸を右に少し進んだところに本丸の門や桝形があるのだが、そこも徹底的に破壊され大量の石が転がっている。
 さて本丸に登る。登ると言っても、土塁上を歩いてきたためにそう高低差はなく、体育館から壇上に上がる程度。桜だろうか、たくさんの木が植樹された広い曲輪だ。まずは天草四郎の墓と、天草四郎像へ。この像、とても有名。本丸の北側から、有明海の南東方面を見つめ祈っている。16歳の彼は、ここ本丸で斬首された。墓には十字架がかけられていた。ロザリオというやつか。そして、本丸を散策する。有明海にはここから300mほど沖合いに、リソサムニューム(白州)と呼ばれる浅瀬がある。イギリス海とインド洋とここの世界に3つしかない、どうやらとても珍しいものだそうだ。
 本丸を外周に沿って歩く。西側には櫓台跡があり、どうやらここが天守だったという説がある。そして後回しにしていた桝形虎口も見学し、一旦車道に降りて天草丸まで下り道を進む。天草丸自体は小規模であまり遺構は残っていない。なだらかな下り道を進んで天草丸までやってきたが、そこから振り返ると原城の本丸全貌が視界に収まる。6,7段くらいの土類が段々に積み重なるような、意外なほどに高さがある本丸だ。原城の、城そのものが強い理由はこの高さ。高さは30mほどあるそうだ。またこの原城、海岸に突き出た丘陵地であるため、実は南側は直下が海の絶壁。本などに掲載されている写真ではあまり分からないが、天草丸からだと一目瞭然。
 さて、引き返して、大手門跡の方から原城温泉真砂(まさご)へ。真砂に着いて、雨が強まってきた。ここは食事処と銭湯施設なのだろうか、カウンターでスタンプを押印。コンビニで買っておいたパンでちょっと腹ごしらえをしつつ休息。水膨れの足裏が痛い。バス時間も近づいてきていたので、傘をさし、原城前バス停へ。本日は2城予定。2城だとかなり余裕があるものだと、4城の昨日を思い返しながら改めて思う。12時40分、島原バスに乗り、島原駅へ向け出発。

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