平戸城

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name平戸城
another name亀岡城 日の岳城
selected100名城 90
location長崎県平戸市岩の上町

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攻城日時

2020年12月19日

攻城手段

JAL 西肥バス

攻城記録

 長崎県の100名城、平戸城。松浦氏(マツラシ)の居城。江戸中期にもかかわらず築城申請が降りた珍しい城。江戸時代の平戸藩は、現在の佐世保市から北は隠岐市まで、さらに五島列島の一部が含まれる。松浦氏はその範囲を治めていた。 現在の平戸城は模擬天守で、1962年(昭和37年)に復元されたもの。懐柔櫓も模擬天守と同時期に造られた。

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 そもそも、松浦氏は長崎県北部の豪族であった。秀吉の九州征伐で所領(肥前北部、壱岐)を安堵され、関ヶ原後には徳川幕府から6万3千石の所領を安堵された。 うまく戦乱の世を渡ってきたものだ。
1599年(慶長4年)松浦鎮信(マツラシゲノブ26代藩主)が、三方を海に囲まれた天然の要害である平戸瀬戸に日之嶽城(ヒノタケ)の築城を開始。 しかし幕府による改易を恐れその配慮から1613年(慶長18年)自ら完成間近の城を焼き破却。江戸時代全般どこでもそうだが、以降しばらく城は造らず。 しかし、1703年(元禄16年)幕府から築城を許可される。これはとても珍しいことで、江戸中期に新たな城の築城許可が降りることは滅多になかった。 藩主が寺社奉行になったことを機に幕府に願い出て許されたらしい。 1704年(宝永元年)松浦棟(タカシ)が日之嶽城址に新たに築城を開始。松浦重信(29代藩主※隠居後は鎮信に変更)と彼が師事していた山鹿素行が構想を練り、 1718年(享保3年)松浦篤信(アツノブ31代藩主)の時に亀岡城が完成。以降明治維新までの150年間、平戸の治世の中心であった。
1871年(明治4年)の廃藩置県により廃城。北虎口門、狸櫓を残して全て破却。

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 さて、平戸城。一昨日の新型コロナの感染者数が都内は過去最高の822人。専門家の意見をようやく聞き入れた菅さんが、12月28日から1月11日までのGOTOキャンペーンを停止。 一方、平戸対馬攻城の出発日は12月19日。自粛要請の中、悩むも決行。普段のマスク消毒液に加えてビニール手袋をつけ感染対策をワンランク上げる。しかし気持ちのよいものではなく、旅行の高揚感はあまりない。
 5時13分自宅発、山手線、京急線と乗り継ぎ、6時31分羽田空港第1第2ターミナル駅着。JALは第1ターミナル。チェックインカウンターで友人と合流。7時25分羽田発、9時25分長崎空港着。東京から2時間950kmとなかなかに遠い。

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 長崎空港は小さい、が降りてすぐに抱いた感想。出てすぐに目の前のバス乗り場2番から、西肥バスで佐世保に向けて9時50分発。1480円、Suica等交通系ICカードは使用可能。ハウステンボスを経由して11時19分佐世保着と出ている。
 長崎空港から佐世保までは、左に大村湾、右に山や民家が点々とする道中だが、その民家は山の傾斜を段々に整地した上で石垣を積み補強しているところが多いように見受けられる。ここで、なるほどと思い出す。ブラタモリでやっていた通り、長崎は坂の街なのだ。山を駆け上るように家々が並ぶ。
 それにしても長崎県は地形が複雑。位置関係がよくわからず地図をしばらく眺めていると、左を向いた馬のようにも見えてくる。馬の目が生月島、頭が平戸島、長い首の下喉元が佐世保、右足の甲が長崎市、左足の膝が長崎空港のある大村市。左足の踵が島原城で、つま先の方が原城。ちなみに胴体は佐賀県。こんなイメージだと自分には覚えやすいかも。
 バスは遅れたようで、11時35分に佐世保駅到着。さらには、降りたその場所が次のバスが出発するバスセンターなのにもかかわらず佐世保駅前に迷い出てしまう。間違いに気付いて走って戻る時には、平戸行きのバスはもう既にバックして切り替え出ようと動いているところだった。走りながら運転手さんとアイコンタクト、停まってもらい、なんとか乗車。これを逃すと全ての計画が狂う、危ういところだった。
 西肥バスで11時40分佐世保駅前発、また再びバスに揺られる。揺られること1時間半、相変わらず民家に石垣が多い。九州本島から平戸島に渡り、13時20分平戸桟橋着。家を出てから8時間。平戸は遠かった。そのうち3時間はバスに揺られる。腰がいたい。田平港に着き赤い平戸大橋が見えるまではかなり退屈な風景で、路程が遠く感じられたのもこの風景が一因かも。
 先ほど、九州本島から平戸島に渡った、と書いたが、実は平戸は島。生月島(いきつきしま)とワンセットの長崎県北西部の島なのである。カタカナ「リ」の左の縦棒が生月島、右の長い払いが平戸島。平戸島に渡るには前述の赤い平戸大橋を渡らなければならない。
 平戸は、海外の国と古くから交易を行っていた日本初の貿易港である。ポルトガル船が佐世保に入港したのが1550年。平戸藩主であった松浦隆信がポルトガル船との交易を許可し、それ以降西洋との交流が始まる。ちなみに当時は平戸から銀がよく輸出されていたらしい。その後の平戸は、港に面してオランダ商館が立ち並び貿易の拠点として外国人が行き来するようになる。このように16世紀には国際色豊かな日本の玄関口として栄えた。
 さて、バスは平戸市観光交通ターミナルに到着。目の前が平戸港で、湾を挟んだ海の向こうに平戸城が見える。海の青と平戸大橋の赤、そして平戸城の白が見事にマッチして、とてもいい景色だ。当時を想像してみる。平戸港に入ってきた外国船からは平戸城がかなりよく見えたであろう。海から仰ぎ見る平戸城。そして櫓、石垣、土塀。その迫力で、平戸藩の威を誇示していたのであろう。
 1600年初頭からオランダとの貿易拠点であった平戸は、今も洋風な街灯が設置されていたりと全体的にハイカラでおしゃれな感じ。バスターミナルは観光案内所にもなっており、各種パンフをここで手に入れる。平戸城は生憎2021年3月までの改修工事で中に入れないため、100名城スタンプはここ案内所に設置されていた。無事押印。これで72城目。
 何はともあれ空腹。平戸名物のあらを食べたかったが、案内所の人曰く、13時半でどこもラストオーダーだと。とりあえず案内所を出た道路の向かいにあった「あまちゃん」という店で漁師丼とビールを注文。一息つく。
 時刻は14時。平戸城は最後に回すこととして、先にオランダ商館、三浦按針の墓、見晴台、松浦史料博物館、平戸ザビエル協会と回ることにした。観光交通ターミナルから少し西に歩くとすぐに、この先オランダ商館の看板があり、海沿いの遊歩道を進む。明るく澄んだ青緑の海がとてもきれいで、透明度も高くフグなど魚影もはっきり見える。「オランダ埠頭」と呼ばれる海につながる石の階段もあった。歩いてほどなくオランダ商館が見えてきた。青い海を背景に太陽を浴びた外壁が白く輝いている。建物には大きく、東インド会社を表すVOCのロゴと1639の数字。オランダ商館は1639年に完成した巨大な石造倉庫で、日本で初めての洋風建築物。そのオランダ商館が復元されている。約2万個の砂岩切石が使用され、屋根が日本風の瓦であること以外、外観や構造はオランダの建物に似ている。柱など建物の構造自体が見どころの一つとなっているのに加えて、屋内の展示物も豊富。毎度のことながら時間がなくかなり駆け足で見たが、本来なら1時間半程度は必要だろう。
 続いて「オランダ塀」。オランダ商館を出て三浦按針の墓へ向かう道中に、それがある。オランダ商館同様に砂岩切石を幾層にも積み上げたもので、経過した年月の分だけとても味わい深い遺構になっている。そしてオランダ塀の階段から振り返ると、青い海と赤い平戸大橋。絶好のロケーションである。そのため、前を撮ったり後ろを撮ったりで忙しい。
オランダが平戸に来た時期のことを時系列に書いておく。1609年オランダ船2隻が平戸に入港。藩主の松浦隆信は歓迎し商館の建設を許可した。1611年に住居と倉庫を新築、1616年に更に倉庫と防波堤を築き、1618年の大増築で「オランダ塀」が築かれた。
 さてオランダ塀の坂を登り三浦安針の墓へ。向かう
 三浦安針の墓に到着。お墓は坂や石段をかなり登った先にある。三浦安針はイギリス人。リーフデ号は1600年4月29日に大分県の臼杵に漂着。乗組員110人のうち生存者は24人という過酷な航海だった。比較的健康だったウィリアムアダムスは大阪で徳川家康と会い航海の目的や世界情勢を話した。先に日本にいて利権を得ていたポルトガル人勢力はアダムスに罪を着せるよう画策したが、家康はアダムスたちを保護。造船技術や知識で家康の信任を得たウィリアムアダムスは旗本に取り立てられ三浦安針と名乗る。三浦按針は1609年の平戸オランダ商館設置、1613年の平戸イギリス商館設置の仲介を果たす。1619年平戸藩の重臣佐川主馬(シュメ)がスポンサーとなりトンキン(北ベトナム)に派遣された貿易船の船長となる。しかしその帰国後病気になり、1620年に平戸で死去。56歳だった。安針は平戸大橋を望むことができる見晴らしのよい場所に今は眠っている。
 さらに少し進み遠見展望所に足を運ぶ。着いてすぐに思った。ここがおそらく平戸一の絶景スポットだろう。平戸城の天守と乾櫓、その間にある北虎口門と狸櫓、平戸大橋、青い海と島々。それらをワンショットに収めることができる。写真を撮りつつしばしその光景に見とれる。平戸はすてきな街だと改めて思う。ゆっくり見ていたいがそう時間もない。17時半にはここ平戸を出発しなければならない。急ぎ松浦資料館に向かう。
 が、しかし。ここで道に迷う。勘違いさせるような書き方をしている地図が悪いのだと思うが、坂道をいったり来たり。また戻ってやっぱり引き返してを繰り返し、なんとか到着。松浦資料館は展示物も豊富で、本来ならもう少しゆっくり見たかったくらい。平戸から江戸まで東海道をいく参勤交代の絵(大阪までは船)が印象的だった。また百人一首、愛用品や趣味の品など、松浦藩主のプライベートな遺物も心に残る。奥の茶室も少し見学して、ばたばたと出る。
 平戸城方面へ急ぐ。海沿いに戻り、「幸橋」を渡るところからスタート。この石造りの幸橋はとても立派で、1702年(元禄15年)に30代藩主の命で造られた石造単アーチ橋。架橋の技術はオランダ商館築造に携わった石工が地元の石工に伝授したそうだ。橋から水面を見下ろすとここにもオランダ埠頭があった。当時はここまで船が入ってきていたのだろう。幸橋を渡り運動場を通り亀岡公園に進む。運動場のフェンスの間から乾櫓が見えた。さらに進み、北虎口門と狸櫓に到着。
 ここ北虎口門と狸櫓は、廃藩置県以降も残った唯一の現存、という認識で来たのだが、櫓台の上にある建物は何やら新しい。櫓台が現存ということなのか?
 来る前からわかっていたが、平戸城は今改修工事中。受付も閉まり、狸櫓から天守へ通じるの道も緑のカラーコーンで塞がれている。仕方なく通ることのできる受付右から乾櫓の方へ進む。本丸跡だろうか、かなり広い敷地に出て乾櫓を見学。敷地を奥に進むと亀岡神社があり、ここでようやくちらっと天守を拝み見ることができた。さらに歩を進めて、工事中の天守と懐柔櫓エリアに到着。相撲大会でも定期開催するのか?なぜか立派な土俵も設置されている。しかしここでも緑のカラーコーンに行く手を阻まれる。これ以上は進めない。天守の下では重機が動いている。
 入ってはいけないのだが、入れないわけではない。ここまでで天守がばっちり入った納得のいく写真を撮ることもできていない。悩みつつ、緑のカラーコーンを越え、少しずつ侵入。重機の人もこちらを気にしてそうな雰囲気はまるでない。さらに侵入。懐柔櫓まで進む。ここはホテルになるはず。日本初の試みで面白い。確か一泊60万だったような。いつか、泊まってみたいものだが。かなり侵入したので、天守と櫓を一枚に収めることができる。写真を撮りつつ、さらにジリジリと侵入範囲を広げる。とうとう天守間近まで来れて、土塀で重機から隠れ、我々は完全に死角に入った。ということで、そのまま石段を登り天守へ。もちろん天守の中には入れないが外観を見上げることができ、真下からいいアングルの写真を撮ることができた。満足。天守エリアから平戸瀬戸を見下ろす。なんとも眺めのよい場所に松浦さんは城を建てたものだ。
 さて、時間もない。引き返さず天守エリアをそのまま進み下り、先刻は通れなかった(通らなかった)受付横のカラーコーンを跨ぎ、ぐるっと一周して、北虎口門に戻った。いや、侵入できてよかった。かなり満足。そもそも工事は来年3月までだから大部分の工事はほぼほぼ終わっているのだろう。チャレンジしてみるものだ。フライングだったが、改修されてきれいになった天守を拝むことができた。
 さて、バス時間まであと30分。しかし欲張って平戸ザビエル協会も見ることに。急ぎ足で引き返し、坂を登り階段を登る。遠くに平戸ザビエル教会が見えてきた。ここら一帯は教会と寺社が見える坂ということで有名なスポットのようだ。確かに教会と寺社が重なって写真に収まる場所というのは珍しいだろう。教会に到着。緑とクリーム色を基調とするきれいな教会だ。中には入れずざっと外観を見学。
フランシスコザビエルを乗せたポルトガル船が鹿児島に来航したことで、キリスト教が伝来したのが1549年。翌年、平戸にポルトガル船が入港したという話を聞いたザビエルは、初めて平戸の地を訪れた。その後も日本各所を布教してまわったザビエルだが、平戸には、日本に滞在した2年間で合わせて3度も訪問。平戸にはキリスト教が浸透し、禁教令が敷かれる時代になっても、信者らは潜伏キリシタンとなって脈々と教えを守り伝え続けた。禁教令が解かれると、長崎の各地には次々と教会が建てられたが、平戸では紐差教会や宝亀教会などに続いて1931年「平戸カトリック教会」が建てられた。その後、平戸にキリスト教を布教したザビエルを称え、「聖フランシスコザビエル記念聖堂」とも呼ばれるようになる。
 と、ここで残り時間あと15分。やり切った。観光交通ターミナルへ急ぐ。ターミナルには5分前に着き、ゆうゆうバスに乗る。車窓から夕日に映える平戸城や平戸大橋を名残り惜しく眺め、やりきった充実感に浸る。平戸はなかなか訪問しづらいところではあるが、是非再訪したいものだ。平戸城の中にも入っていないことだし、今度は一泊二日くらいで平戸をゆっくりぶらぶらとできたら最高だな。
 佐世保に戻る。今日は合計4時間半もバスに乗った。長崎空港から佐世保、佐世保から平戸、平戸から佐世保で各1時間半ずつ。平戸は魅力があるが、行程を振り返ると行きにくさを改めて思う。

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today's ramen 1

『海鮮めし処 あまちゃん』 (平戸市観光交通ターミナル前) 漁師丼 1000円

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 とりあえず空腹。朝5時に家を出てから平戸に着くまで、まともに食べていない。昼過ぎということもあるのか、店内には客は誰もいない。名前に惹かれて漁師丼を注文。
 甘だれがうまい刺身丼と、味噌汁、たくわん、ミニうどん、豆腐。以上が漁師丼というセットの内訳。刺身丼には、真ん中にとろろとわさびがのせられ、それが甘だれの刺身とよく合う。おいしかった。おやじさんが店の入口で何やら作業をしていたが彼は漁師なのだろうか。ごちそうさまでした。





today's ramen 2

『お栄さん』 (JR佐世保駅) ちゃんぽん 690円

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 佐世保駅から北に徒歩5分。時刻は20時半くらいだったろうか。長崎に来たのだからやはり長崎ちゃんぽんを。ということで探すも、他の店は19時半で軒並み終了、ここお栄さんだけは24時間とネットには書かれてあり訪れた。おそらくベースは中華屋さんで、ご主人と奥さんも日本人ではなさそう。比較的広い店内な上に席間にかなり余裕があり、新型コロナの状況でも安心して食べることができる。ちゃんぽん690円を注文。
 やさしい味わいでおいしい。どうしても比較がリンガーハットになってしまうのだが、パンチはリンガーに分がある。しかし、田舎の郷土料理を食べているようなそんな優しい味がする。もやしがたくさん、他にキクラゲなど定番の具材が入っている。特筆すべきは細切りのイカで、これがまたおいしかった。スープは少ないが、すべて飲み干すくらいに優しいお味。思えばリンガーハット以外の長崎ちゃんぽんは初めてかも。お店の人も感じがよく、よかった。ごちそうさまでした。





today's ramen 3

『BIGMan』 (JR佐世保駅) 極選佐世保バーガー 1150円

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 佐世保と言えば、佐世保バーガー。佐世保バーガーと言えば、ここビックマンらしい。友人の話では100名店に名を連ねる人気店のようだ。直前にお栄さんで長崎ちゃんぽんを頂いたが、せっかく佐世保にきたことだし、まだいけるかも、ホテルで食べよう、ということで、夕飯2食目になるがビックマンに足を運ぶ。駅からは少し歩いた気がする。店舗自体は主にテイクアウト中心なのだろう、小さいが暗い通りの角っこに煌々と看板が輝いている。遅い時間だがそれでも客はそこそこいる。店頭にメニューがあり吟味。どれも重量級に見え悩むも、極撰バーガーというものを注文。作る工程が外の客にも見えるようになっているので、それを眺めながらしばし待つ。受け取ってまずその重さにひく。ずっしり。ホテルに持ち帰りいただく。
 うまい。やはりうまかった。2食目で、そしてこの重さで、大味であればまず胃袋に入らなかっただろう。大きくてちょっと食べにくいが、味がよい、とてもおいしかった。極撰バーガーについて改めて調べると「ビッグマン史上最大の超特盛サイズ!パティ(ハンバーグ)2枚+自家製ベーコン3枚+太陽卵+チーズ2枚!豪快!」とある。ん。ビックマン史上最大?知っていればこの選択はなかったものを、、。でもうまかったからよし。プレミアムベーコンは5日以上の工程をかけて作っているそうな。明日の朝食分までまとめて食べ終えた気分。ごちそうさまでした。


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