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Data
- 築城年: 1602年(慶長7年)
- 廃城年: 1873年(明治6年)
- 城郭タイプ: 平城(輪郭式)※水城 海城
- 天守タイプ: 望楼型※模擬天守
- 築城主: 藤堂高虎
- 主な城主: 藤堂氏、松平氏
- 関係する武将:
- 主な遺構: 石垣、堀、模擬天守、鉄御門、多聞櫓、東隅櫓、山里櫓、武具櫓 ※一部の石垣と堀以外は復元
- 主な石垣のタイプ:
Map
Record
攻城日時
攻城手段
攻城記録
愛媛の100名城5つのうち1つ、今治城。名手、藤堂高虎が築城。瀬戸内海に面した海岸線に築かれた大規模な平城。高松城、中津城とともに三大水城の一つである。
▼read more!水城である今治城は、瀬戸内海からの海水が三重の堀に入り込む設計となっている。港まで備えた大がかりな海城だった。今治城は藤堂高虎の築城。関ヶ原の戦いの軍功により、徳川家康から加増され、藤堂高虎は伊予20万石の大名となり、1602年に今治城の築城を開始、「今張」の地を「今治」に改名した。1608年頃にはほぼ全ての建物は完成。1609年に藤堂高虎が譜代大名並みの扱いで伊勢の国津城に移封された際に、今治城の天守は取り壊されて、丹波の亀山城に移築されたと伝わっている。その後の今治城は、養子藤堂高吉が引き継ぐ。1635年に藤堂高吉が伊賀の名張に移り、代わりに伊勢の長島城から松平定房(久松定房)が入る。明治維新まで、久松松平家が代々治めた。
▲close!さて、本日2城目の今治城。12時10分、瀬戸内海交通バスで能島城の大島宮窪から今治桟橋着。そこから徒歩10分。海水を堀に取り込む水路沿いの路地を抜けると急に今治城の全容が広がる。今治城着。 海賊禁止令で村上海賊が去った後に、藤堂高虎が入封。今治城は高虎が伊賀上野城に国替えとなった時に、天守を移転しようと一度大阪まで運ぶが、家康の天下普請のため結局丹波亀山城に移築された。家康との関係からみて、無理やりではなく進んで献上という感じか。
▼read more!今治城は、全体として丁度良いサイズの城郭というのが第一印象。大きすぎず小さすぎず。内堀はかなり幅が広く、フグがたくさん泳いでいる。内堀の北側に今治港と繋がる水路があり、そこから海水を引き入れているようだ。大手門から城郭内へ入る。陣羽織で城を視察している藤堂高虎像とそのバックに天守閣が現れる。御金櫓、山里櫓、鉄御門、全て再建で中が美術館になっているのだが、外観としては見応えがある。鉄御門周辺の石垣も修復したもの。城内に残っていた勘兵衛石という巨大な石を、それを大理石?花崗岩?に混ぜ、それらとともに石垣の中に再び組み入れたそうだ。まずは天守内へ。残念ながら模擬天守。大阪城のようなコンクリの階段。今日が金曜だからだろうか、客が全くと言っていいほどいない。禁止されているカメラのシャッター音が、静寂の中を響き渡る。天守内は鎧や刀などの武具が充実。ただ当然ながら松平時代のものがほとんどで、藤堂高虎関係のものは少ない。最上階の天守は回縁に出ることができ、眼下を一望できる。一周すると宇和島城が海水を引き入れた水城であることがよくわかる。遠く北に大島と伯方島が重なるようにあり、それに挟まれて見えないが能島城方面が広がる。高虎は完成の年に国替えとなった。この景色を手放すことは惜しかっただろうと推察。天守を出て地上から改めて見上げる。復元だがとてもよい城である。三代水城の中津城の攻城はまだだが、昨年訪れた高松城と比べても、圧倒的に今治城の勝利。14時35分、バスターミナルから瀬戸内バスの特急松山市駅行きに乗り、湯築城に向け出発。
▲close!today's ramen
impressions
今治のB級グルメ、焼豚玉子飯。そのパイオニアの店、白楽天。今治駅から徒歩8分。今治城から歩いたが徒歩15分くらいか。1970年にまかない飯を改良、当時は今治北高校が近くにあり、学生人気に火がついたという。過去に週間漫画サンデーにも掲載された。その焼豚玉子飯の単品を注文。
うまい。大きな玉子が二つ、その下に焼豚がごはんに敷き詰められている。たまごの上に胡椒?山椒?がふりかけられており、甘いタレとなんとも合う。甘いうなぎの蒲焼ダレのよう。創業以来の秘伝のタレを継ぎ足して今も使っているらしい。クセになる旨さであった。