伊予松山城

Basic information
name伊予松山城
another name金亀城(キンキ) 勝山城
selected100名城 81
location愛媛県松山市丸之内

トップページへ





Photo

▼see more!

▲close!



Data




Map




Record

攻城日時

2019年12月22日

攻城手段

特急宇和海→徒歩

攻城記録

 愛媛の100名城5つのうち1つ、伊予松山城。姫路城と並び連立式天守で有名である。初代藩主は加藤嘉明。

▼read more!

 伊予松山城は、標高132mの勝山に築かれた平山城。加藤嘉明によって築城された。現存している天守は、1854年(安政元年)に松平氏によって再建されたもの。明治になる14年前に築城された、江戸は江戸でも新しい天守なのだ。ちなみに、現存天守12城の中で唯一、親藩の松平家によって築かれたものである。伊予松山城は「登り石垣」でも有名。現存天守で登り石垣があるのは、彦根城と伊予松山城のみ。
 ※加藤嘉明について
 〇徳川家臣時代
徳川家康の家臣である父、加藤教明の嫡男として1563年三河に生まれる。生まれた年に一向一揆が起き、父教明は本多正信らとともに一向宗門徒側に付く。結果家康に敗れ、幼い嘉明は徳川家を離れ、流浪の身となる。
 〇豊臣家臣時代
嘉明10歳の頃、父教明は広く家臣を募っていた長浜城主の豊臣秀吉の家臣となる。嘉明も秀吉に見いだされ、15歳で初陣、300石の豊臣家直臣となった。時は流れ秀吉VS柴田勝家の賤ケ岳の戦いでは、賤ケ岳7本槍の一人に名を連ね(他、加藤清正、福島正則、片桐且元、脇坂安治、糟屋武則、平野長泰)、3000石の家臣となる。四国攻めの際に小早川隆景に加勢し、伊予の河野通直を攻めた功績により、24歳の嘉明は1万5千石で1586年淡路の志知城主となる。淡路水軍を率いた嘉明は、豊臣方の水軍では九鬼水軍に次ぐナンバー2になり、九州攻め(1587年)、小田原攻め(1590年)、朝鮮出兵にも参戦。この功績により1594年伊予の松前城(まさき)※海城 を加増され本拠とし、6万石になる。その後、秀吉没、前田利家没。石田三成が政治の実権を握りだすと、三成暗殺計画(加藤清正、福島正則、黒田長政、細川忠興、池田輝政、浅野幸長ら計7将)を企て、三成を佐和山城に蟄居させた。
 〇関ケ原の戦い
関ヶ原の戦いでは家康に味方。関ケ原本戦でも陣を構えた。しかし、嘉明が留守の際に、本拠松前城を毛利水軍と村上水軍が急襲。留守を預かった弟や家臣の佃十成が撃退(三津浜夜襲)。毛利に従って参戦していた村上水軍の村上元吉を討った。これら関ケ原の功績で、嘉明は20万石に加増され、1601年に伊予の勝山城の築城許可を得て、1602年から築城を開始。松前城(まさき)の石垣などの材は、勝山城に運ばれた。1603年勝山城を本拠とし地名を松山と改名、松前城は廃城。
 〇大坂の陣
豊臣恩顧の大名ということで、1614年冬の陣では江戸で留守番。1615年の夏の陣では、秀忠の軍に加わり武功を挙げた。1619年、武家諸法度違反による福島正則の改易の際には身柄を預かり、広島城も接収。
 〇会津若松転封
1627年(寛永4年)。会津の蒲生氏(氏郷と孫)が減封で伊予松山へ。変わりに嘉明が増封で会津へ、伊予松山城が完成する前に転封となってしまった。。会津若松を本拠とし43万石の大名となった。現在の会津若松城は、加藤嘉明が改修したものを復元。ちなみに、三男明利が3万石の三春城主。娘婿の松下重綱も5万石の二本松城主。1631年、江戸桜田の屋敷にて69歳で死去。嘉明死後、息子明成が幕府重臣と対立、会津43万石は幕府に召し上げられてしまう。

▲close!

 さて、四国3日目、本日2城目の伊予松山城。河後森城から宇土線で宇和島着。一度改札を出て一服し一息入れ、再び改札内へ。JR特急宇和海8号で8時40分宇和島発、10時8分松山着。3030円。友は内子で下車するようで、先に松山へ。河後森城の駆け足感を抜くべく、車窓を眺め惚けることにする。しばらくスマホは見ないことにする。

▼read more!

 駅から松山城までは徒歩で20分1.5km。広い道路で歩きやすいため、遠くには感じない。10時40分途中の、和カフェで朝食を摂る。11時出発。外に出たら雨がパラつき始めている。本日は雨予報。時間があるのでロープウェイではなく、江戸時代の正規ルート、黒門口登城道から歩いて登城することに。黒門口登城道は、当時は二の丸から本丸へのルートだったようだ。大きな葛折りのような石垣群を抜けると、右手に二の丸庭園を見える。二の丸沿いに進み、左に折れ、11時15分、黒門跡に到着。まずここで圧倒される。まだ城の端の端なのにもかかわらず、立派な石垣がそびえ立つ。丸亀城クラスの石垣が折々に連なる圧巻の石段を上り、槻門跡がある。石の巨人に見下ろされているような気分だ。それらがふと終わり、急に山道になる。ここからが困った。獣道のような標識もない細い道。人1人しか通れず擦れ違うことのできない、細く柵もない急斜面の道。ほんとにここなのだろうかと何度も疑った。疑いながらも進む。結局石階段が急に現れるのだが、それを見るまで道を間違ってしまった不安でいっぱい。石階段が見えてかなりほっとした。この黒門の道、二の丸と本丸を結ぶ道だったらしいが、ほんとに当時の武士たちが行き来に使っていたのだろうか?そう疑うくらいに寂しく細い山道。宴後の武士は間違いなく滑って落ちたであろう。さて、本丸着。ここは南端。北に向かって楕円形に瓢箪のように細長く本丸曲輪が延びている。天守群も見えるがまだ遠い。しかしその光景に心が沸き立つ。重要文化財の筒井門や戸無門などを見学しながら、天守に近づいていく。ここで雨脚が強まる。伊予松山城は言わずもがなの連立式天守。近づくにつれ伊予松山城の全容が見えてくる。向かって左手前が南天守、左奥が北天守、右手前が小天守、右奥が大天守。土台となる石垣がとても高い、そして連立のため横に広い。結果、残念ながら写真の収まりがよろしくない。近寄れば高石垣で天守下部は隠れてしまい、また両端も欠ける。松山城は写真家泣かせかもしれない。まずは一周する。北天守が工事中。高石垣はその真下を通ると高さをより実感する。ビルに寄り添うように歩く時のあの圧感に近い。一周して天守入口へ。入口でスタンプを押し、靴を脱ぎ中へ。まず最初になるほどと思ったのが、姫路城とは異なり、小天守間を普通に回遊できる点。連立式天守をつなぐ十軒廊下、多聞櫓などを通り、普通に回遊することができる。姫路城では冬の特別公開期間中だけ通行ができたが、普段は確かできなかったはず。各小天守群には展示品や説明板が並ぶ。小天守は二階へと上がることができ、本丸を一望できる。北天守は工事中で階段から先は登ることが叶わなかった。さていよいよ大天守2階3階へ。宇和島城と同じく、ここも天井が平面の板張り。天守とは当然戦いに備えた作りで、天井は剥き出しが常だという印象なのだが、不思議な天井である。外は冷たい雨でグレーに煙っているが、天守からの景色はそれでも実にすばらしい眺めだった。連立式天守の醍醐味であるが、各天守を別の天守から眺めることができる。中庭的な部分も、そして、雨に煙る松山市街も遠くの山並みも、どれも見事なアングルだった。しかし、それにしても寒い。天守から眼下を眺めていると、本丸を歩く友を発見。電話をして合流し、ロープウェイで下へ。ロープウェイは大人270円。一瞬で地上に到着。そこから歩いて大街道バス停へ。14時36分空港行きリムジンバスに乗る。大街道→空港間は620円。15時50分松山空港発、17時20分成田空港着。ここで、3日間の攻城をつつがなく終えることができた。愛媛7城制覇!おつかれさま。

▲close!



today's ramen

『麺屋 空海』 (成田空港第2ターミナル) 味噌ラーメン 850円



impressions

 東京に到着。こちらも寒い雨。成田空港ではずいぶん遠くで降ろされたようで、飛行機からバスで空港内へ。時間は17時半。ラーメンを食べて帰ることに。しかし、ここは成田空港。外国人向けの店は多いが、日本のラーメン好きが好むような店がなかなか見つからない。成田空港第2ビル4階にある、空海を発見。味噌ラーメンの看板がとても食欲をそそり、入店。味噌ラーメン850円を食す。
 うまい。が、正直ふつう。ふつうにうまい味噌ラーメン。「ゲンコツ、鶏ガラを丁寧にローストして焼き色を付けてゆっくり煮出しています。それにより、今までに無い繊細で独特のコク、香りを実現しました。当店では、フランス料理のフォンにならって、ゲンコツ、鶏ガラをローストしてスープ(フォン)をとります。ゆっくり手間をかけて仕上げた上質の澄んだスープです」と、後からネットで読むととてもおいしそう。人間の味覚とはあいまいなもの。この文面を先に読んでおけば、もっともっとおいしく感じることができたはず。言葉も一緒に食べる、とはこのことだと納得。



ラーメンの写真
inserted by FC2 system