掛川城

Basic information
name掛川城
another name懸川城 懸河城 雲霧城 松尾城
selected100名城 42
location静岡県掛川市掛川

トップページへ





Photo

▼see more!

▲close!



Data




Map




Record

攻城日時

2021年10月2日

攻城手段

東海道新幹線 こだま

攻城記録

 静岡県の100名城、掛川城。今川氏の居城から始まり、関ヶ原の功で転封してきた山内一豊の頃に栄える。山内一豊が城下を整備し三重の天守と櫓を築くなど近世城郭へと改修した。漆喰は京都の聚楽第から、黒い高欄は大阪城に倣ったと言われ、その美しさから東海の名城と呼ばれた。木造復元された現在の天守は、山内一豊の転封先である現存天守、高知城を習ったもの。

▼read more!

 掛川城は、東500mほどの所にあった今川氏の家臣の掛川古城(かけがわこじょう)が元となる。戦国時代に駿河の守護大名今川氏親(うじちか)(義元の父 寿桂尼の夫 北条早雲の甥)※9代 が近江支配の拠点として家臣の朝比奈泰熈(やすひろ)に命じ、北東の小高い丘に築かせたのが始まり。
 氏親の孫、義元の息子の今川氏真(うじざね)※12代は、武田信玄に駿河を追われ掛川城に入った。しかし1569年(永禄12年)家康が掛川城に立てこもった今川氏真を攻め、開城。一時は徳川家康が支配していたが、豊臣政権下で掛川城に配置された山内一豊が、天正18年(1590年)から10年間治める。城下を整備し三重の天守と櫓を築くなど近世城郭へと改修した。漆喰は京都の聚楽第から、黒い高欄は大阪城に倣ったと言われ、その美しさから東海の名城と呼ばれる。山内一豊は関ヶ原の功(と言っても大したことのない功なのだが)で、1600年(慶長5年)に栄転扱いの土佐への国替えを家康から賜る。そこまでの10年間で掛川の城下町は大いに繁栄。江戸時代は松平氏など譜代大名の居城になり栄えた。最後は太田道灌の子孫である太田資俊(すけとし)が1745年(延享2年)に入城し、明治期まで治めた。
 1854年(安政元年)の東海大地震により天守など多くの建物が損壊し、それらが再建されることなく明治維新を迎え、1869年(明治2年)に廃城となった。
 現在の木造復元天守は、山内一豊が転封した高知城と同じであったという記録をもとに、1994年(平成6年)に望楼型三層四階天守として再建したもの。掛川市民の熱意の賜物。  再建された建造物は、木造復元天守以外では、復興復元の大手門、四足門(よつあしもん)など。  現存する建造物は二の丸御殿、太鼓櫓、大手門番所など。二の丸御殿は国の重要文化財に、太鼓櫓は県か市の文化財に指定されている。

 ※木造復元天守について
 絵図や古地図、古写真を元に忠実に復元され、尚且つ当時の工法に忠実に木造で復元された城のこと。日本に5城のみ。
  白河小峰城(1991年)
  掛川城(1994年)
  白石城(1995年)
  大洲城(2004年)
  新発田城(2004年)

▲close!

 さて、掛川城。こだま709号に乗り東京を8時27分出発。スマホに東海道山陽新幹線のEXアプリを入れ、初めてチケットレスで改札を通過。これ大変に便利。掛川に10時6分到着。朝の東京は台風一過で雲一つない青空だったが、ここ掛川の空も真っ青。絶好の攻城日和だ。昨日は20度と肌寒がったのに対し本日は30度、今年最後の残暑となるか。

▼read more!

 さて、新幹線の掛川駅の出口は南口のみで、北に向かうべく地下歩道で北口に出る。北口に出ると在来線の掛川駅があるのだが、これがまた木造の趣きある佇まい。一方で駅前の様子だが、地方の普通の小さな駅前というのが北口を出ての感想。人はほとんどいない。一昨日9月30日に新型コロナ第5波による緊急事態宣言が明け、その最初の週末なのだが人がいない。北に進む。道は、駅近のお城によく見られる作りで、南北の比較的大きな通りを東西に延びる数本の細い道が交差しているようなすっきりとした区割り。5分程度歩き掛川城に到着。
 太鼓櫓と天守閣が見える。見えるがそこからは入らず、まずは東に折れ、復元大手門に向かう。小さな番所もあり。そして逆川(さかがわ)沿いに西に戻り、天守閣方面へ向かう。「懸河旧址」という看板があり説明を読んだところによると、逆川の流れが城山にぶつかり深い淵=崖ができることから鎌倉時代からここは懸河と呼ばれてきたそうな。それが掛川の地名の由来だそうな。さて、天守閣へ。
 天守閣は黒い高欄が特徴的な、ほどよいサイズの美しい城である。平山城のため多少の階段を登り、そして到着。入口で靴を脱ぎ入城。中は、さすが木造復元、木の香りが心地よい。階段は傾斜も忠実に復元されているため、現存や他の木造復元と同様にかなり急。このご時世なので手すりはなるべく触れたくなく、バランスに気を付けながら二本足で慎重に登る。展示物はそう多くはない。3階へ進む。最上階は黒い高欄のフロアだが、高欄にはどうやら出ることは禁止されている。高欄の手前一角をバルコニーのように鉄柵で仕切っているのだが、今はそこにも出ることができないようだ。仕方なく上半身だけ身を乗り出して四方の写真を撮る。掛川は盆地なのか?360度低い山に囲まれている印象。海などは見えない。山内一豊はここから土佐に引っ越したわけだが、海を一望できる高知城の眺めの良さには喜んだのではないだろうか。
 さて、天守閣を降り、天守閣の東側の細道を通り、二の丸御殿へ。二の丸御殿は現存。ここに現存御殿についてまとめておく。

 ※現存御殿について
 現存の本丸御殿は2つ
  ・川越城
  ・高知城
 現存の二の丸御殿は2つ
  ・掛川城
  ・二条城

 つまり現存御殿は計4つしかない。貴重なのである。川越城の本丸御殿のような入口から靴を脱ぎ中に入る。二条城くらいまでにはそう大きくはない、ような気がする。通り抜ける風、古い畳の匂い、庭にある金木犀の香りも御殿に入ってくる。縁側から外をみれば御殿横には天守閣がきれいに見える。とても気持ちが良い空間だった。天井に彫られた太田氏の家紋が印象に残る。
 時刻は12時。二の丸御殿を出て、駅方面へ向かう。暑い。静岡なので抹茶ソフトを食べる。うまい。本日はこれから駿府城の予定。12時36分、東海道本線に乗り静岡へ向かう。

▲close!



inserted by FC2 system