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Data
- 築城年: 1335年(建武2年)? 1471年(文明3年)頃? 応仁・文明年間
- 廃城年: 1568年(永禄11年)
- 城郭タイプ: 山城
- 天守タイプ: なし ※2階建ての御殿
- 築城主: 六角氏頼(佐々木氏頼)? ※佐々木六角氏
- 主な城主: 佐々木六角氏
- 関係する武将: 六角氏頼、佐々木道誉(京極高氏)、六角義賢・義治、織田信長
- 主な遺構: 平井丸南隅櫓の石垣(野面積み)平井丸南虎口、曲輪、土塁、竪堀、堀切、井戸
- 主な石垣のタイプ: 野面積みなど
Map
Record
攻城日時
攻城手段
攻城記録
滋賀県の100名城の一つ、観音寺城。古い城だが、当時の最先端技術で築城された総石垣の巨大な山城。
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安土城とは5キロ圏内、攻城には同じ安土駅を利用、とご近所。観音寺城は、南北朝時代に佐々木氏によって築かれた。応仁の乱期やその後も、数多く攻められ戦場となった城。応仁の乱での観音寺城の戦いは3回。1468年1月、1468年11月、1469年5月。その頃の城主は、六角高頼(佐々木高頼、六角行高)。応仁の乱期では最終的に六角氏は勝ち、戦国大名へとコマを進める。ちなみに六角氏は元々は佐々木氏。佐々木氏は観音寺城の戦いなどの軍功を評価され、近江守護に任ぜられ京の六角に住んだ。そこから六角氏とも呼ばれるようになったらしい。そんな隆盛を誇った六角氏。京にも近く、六角高頼は室町将軍からも徐々に目をつけられ始める。1487年9月、室町幕府9代将軍足利義尚に攻められ甲賀へ逃げる。1491年8月、10代将軍義植に攻められ甲賀へ逃げる。どちらも一度敗れて敗走、その後奪還。当時の山城の築城術は未成熟で、虎口や竪堀もなかった。きっと籠城には不向きな守りにくい城だったのだろう。1532年、12代将軍義晴が六角家を頼り山麓の桑実寺の境内に仮御所を作る。観音寺城は3年間、室町幕府があった。その後、高頼の息子、定頼の頃が六角氏最盛期。娘を管領細川氏に縁組みさせ、小谷城の浅井氏を配下にいれ、地盤を固める。最後の将軍15代足利義昭を奉じて上洛する際の手伝いをしろという織田信長の依頼を、六角義賢は断る。六角義賢は定頼の息子、高頼の孫。そして1568年に観音寺城は信長に攻められる。徳川家康や浅井長政も観音寺城攻めに加勢したらしい。そして義賢義治親子は敗走、六角氏破れる。その後奪還も叶わず、六角氏は凋落。ちなみに六角氏家臣の蒲生賢秀は支城で踏ん張っていたが、降参、信長配下になる。この時織田家に人質に出されたのが、息子の蒲生氏郷。後の会津若松城などの城主となる蒲生氏郷。この時13歳。(以上、パンフ等から引用)
※応仁の乱のおさらい。発端は家督争いと勢力争いと継嗣争い。時は1467年(応仁元年)。室町幕府8代足利義政には子がおらず、弟足利義視に9代を継がせようと出家していた義視をわざわざ還俗させたにもかかわらず、子の義尚が生まれ、そして兄弟間でもめるという継嗣争い。そこに「三管領」の細川勝元と、「四職」の山名宗全の、室町幕府の権力者が参戦するという勢力争いも加わる。さらには同じく三管領の一人畠山氏や斯波氏の家督争い。応仁の乱のきっかけはいろいろあり。西軍は、足利義尚+日野富子←山名持豊(宗全)。東軍は、足利義視←細川勝元。そこから、皆自分の利害や損得で東西いずれかに付き、全国でぐちゃぐちゃに闘う。山名氏と細川氏の付く側が変わったり、とても覚えにくい。応仁の乱は10年続き、戦国時代のきっかけとなった。六角氏の応仁の乱参加は、同族の京極氏が参戦したため。六角氏も京極氏も同じ佐々木一族。六角氏は琵琶湖の東南側、京極氏は琵琶湖の東北側が領土。守護職などが六角氏の方に認められていたのだが、京極氏が東軍について権力拡大を図る。それに応ずる形で六角氏は西軍につき、参戦。
さて、観音寺城。5時24分発。中部国際空港駅→名古屋→米原→安土。7時34分着。安土駅北口の「深尾」でレンタサイクルを借りる。3時間700円(5時間1000円)。腰の曲がったおばあちゃんが受付け。ちなみに深尾の右にはもう一つレンタサイクル店あり。まずはそこから桑実寺(くわのみでら)を目指す。ちなみに安土駅周辺にコンビニはない。おにぎりを買おうにもタバコを吸おうにも、0.5キロ程度歩かないと、ない。コンビニに着いたら、客はみな車で乗り付けていた。桑実寺への石階段の入口、「桑実寺会議所」まで自転車で15分くらい。直線が多く、人もほとんど通らずスイスイ走れる。
▼read more!レンタサイクル店のおばあちゃんに指定された桑実寺に近いその会議所に停める。会議所は村の集会所的な佇まい。縁側に座ることができて、赤いバケツの灰皿もある。ここで8時45分。そこから徒歩で石階段を登り始める。延々と続く石段の他、石垣もちらほら見られる。階段はリズムよく歩けるほど整ってはいない。桑実寺到着。会議所から桑実寺まで20分くらい。桑実寺にスタンプあり押印。寺の中にも入ることができる。天正年間の奉納画など見ることができる。桑実寺は外観も古く趣きがあって立派。色褪せた感じと周りの紅葉とがまたよく調和している。この境内に室町幕府の仮御所があったとのことだが、そこまで広い境内ではない。仮御所は一体どこにあったのだろうか。さて、桑実寺から観音寺城跡に出発。ここからが大変。桑実寺までも石階段だが、桑実寺からも石階段が延々と続く上、整った階段ではない。リズムや体重移動を調節しにくく、かなり疲れた。竹のストック使用。上に登れば登るほど、石階段は荒れ始め、ちょっとした登山の様相を呈す。そんなこんなで、観音寺城跡に到着。正確には本丸跡。隅櫓の石垣も残っている。よくぞここまで石を運べたものだと感心。そして信長もよくここまで攻め登ってきたものだと感心。ここ、繖山(きぬがさやま)は、標高500m弱の山。攻城、というよりも登山という感じか。時間は10時。安土城に向かうべく下山。桑実寺会議所の自転車に着いたのが10時30分。一服後、出発。
▲close!today's ramen
impressions
安土駅周辺ではラーメンを食べる時間はなく、前夜に食べたラーメンをアップ。中部国際空港セントレア、第1ターミナル4階のスカイタウンに足を運ぶ。海風で体が冷えていることと、疲労とで、温まるものを欲していた。台湾ラーメンの元祖を食す。見た目、スープの赤、ニラの緑で鮮やか。辛そう、が第一印象。実際、辛い。挽肉、唐辛子、ニンニクなどが入っている。深みのある味で麺も(辛さのせいか)甘く感じる。辛さに耐えながら、頭に汗をかきながら食す。辛いもの好きにはよいだろうが、私はすぐに胃が痛くなる。案の定、ホテルで胃痛。