春日山城

Basic information
name春日山城
another name鉢(蜂)(八)ヶ峰(峯)城
selected100名城 32
location新潟県上越市中屋敷

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Data




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Record

攻城日時

2020年5月3日

攻城手段

SR400 (関越道→上信越道)

攻城記録

 新潟の100名城、春日山城。上杉謙信の居城として名高い、全国屈指の巨大な山城。標高180mの春日山に築かれた。

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 城の起源は定かではないが戦国時代に長尾為景、長尾景虎(上杉謙信)らによって、全国でも屈指の防御を誇る城が完成された。 山頂に本丸が築かれ、周囲には大小200を超える曲輪を配置。さらに重臣たちの屋敷も山中に建てられ、山全体が一つの城として機能していた。
 上杉氏が会津へ転封になると、堀氏が代わって入城。その後堀氏が直江津に新城を築いたために、春日山城は廃城となる。 現在でも往時の曲輪などが残る他、1996年(平成8年)に土塁と堀の一部、番小屋を復元。さらに総延長1.5kmとも言われる長大な堀の復元計画も進められている。※西東社 日本の城1000城 より引用

 林泉寺
林泉寺は春日山の山麓にある上杉謙信の祖父、長尾能景が創建した長尾氏の菩提寺。その惣門は春日山城の搦手門を移築したと伝えられている。

 春日山の由来
春日山の地名は、958年(天徳2年) 奈良県の春日大社の分霊を祭った神社が、ここの地に建立されたことに由来する。のちに神社は、春日山城の鬼を守護するための社として、春日山城築城時に上越市へ移されたと伝えられている。

 上杉謙信
上杉謙信は春日山城を拠点に、信濃の武田氏、南関東では北条氏と熾烈なを繰り広げた。だが、勢力を拡大する信長との決戦を前に春日山城で没する。
 「義の戦」を貫いた生涯
上杉謙信は、越後(新潟県) 守護代を務める長尾家の居城、春日山城に生まれた。三男とも四男とも言う。その当時、越後は守護の越後上杉氏、守護代の長尾一族、そして有力小領主たちが激しい勢力争いを繰り広げていた。父為景の隠居後、家督および守護代職を継いだのは兄の晴景である。 元服し長尾景虎と名乗った若き日の謙信は、初め古志郡司(こしぐんじ)として栃尾城(とちおじょう)に入り、兄を助けて国内の平定に従事していた。しかしまだ10代半ばながら栃尾城の戦いや黒滝城の戦いで非凡な活躍を見せたことから注目を集め、春日山城に戻って兄に代わり守護代を務めることになる。その後、守護の上杉定実(さだざね)が没したために守護を代行し、事実上の越後国主にもなった。
ここまでの来歴は他の戦国大名と大差ない。だがこの後は、生涯を通じ他と一線を画していた。形骸化した室町幕府の支配を離れ、他国を侵略して領土拡大を図るのが常識だった時代に、幕府による天下静謐(てんかせいひつ)を助け、国内の治安維持と侵略に苦しむ他国の救援のために兵を動かした。 宿敵武田信玄との10年におよぶ 川中島の戦いは北信濃を奪われた村上氏の要請であったし、年をまたいで相模(神奈川県)まで遠征した北条氏の小田原城攻めも、力を失った関東管領上杉憲正の旧領回復が目的だった。 そのため、70度におよぶ合戦の多くで勝利を挙げた割には、謙信が生涯を通じて拡大した領地は思いのほか少ない。居城が代々の城である春日山城と、平地に設けた政務の館、上杉館(御館)(おたて)に限られたのも必然であったと言える。
勢力を拡大する織田信長との対決も、契機となったのは将軍足利義昭からの要請であった。1576年(天正4 年)、謙信は能登の七尾城を攻め落として加賀(石川県) に進み、柴田勝家率いる 織田軍を手取川の戦いで破った。 しかし、信長との決戦を間近に控えた謙信は、出陣の数日前に春日山城で倒れ、そのまま息絶えた。義に生きた武将は、病によって生涯を閉じた。

 謙信死後に起きた「御館の乱」
御館(おたて)は居城を追われた関東管領上杉憲正の居館として築いたもので、上杉館とも呼ぶ。 謙信も関東管領を継いで以降この御館を用いた。 しかし御館は後に上杉家を揺るがす騒動の舞台となる。妻を娶らず、実子もなかった謙信には複数の養子がいたが、誰を跡継ぎに指名するかは未定であった。そのため謙信の死後、家督をめぐり家中を二分する争いが始まる。 謙信の姉の子上杉景勝は春日山城に、そして北条氏から養子に入った上杉景虎は御館に籠り、 家臣団はおろか武田氏や北条氏、伊達氏や葦名氏ら周辺の大名家まで巻き込み激しく争った。争いを制し家督を継承したのは景勝だったが、この間に織田信長によって加賀、能登、 越中を奪われ国力が低下。また荒廃した国内の立て直しにも時を要し、中央政権の混乱に乗じる機会を逸した。気づけば秀吉に臣従する以外、存続する道は残されていなかった。
※西東社 日本の城1000城より引用

 実は守りにくい山城だと書いている本もある。麓から山頂までの比高も150mとあまり高くもなく、険しくもない。山の上が広くて谷がいくつも入り込んでおり、むしろ守りにくそうな地形。重要性はむしろ戦略的、地政学的なところにあったとう説。春日山城に登ると、越後府中(今の上越市市街)と頸城平野(くびき)を手に取るように眺めることができる。この眺めと軍勢を集結できる広さ、この二つを得ることが狙いだったのでは。越後国内のごたごたを見通し、武威を見せつける。そのための春日山城だったという説も、山頂に実際に立てば実感できるかもしれない。

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 さて、春日山城。4時45分、ファミマ練馬高野台店で友人と合流、出発。練馬ICから関越道に入る。GW後半初日、渋滞はまだないがそれでもかなり車は多い。 藤岡JCTで関越道と上信越道の分岐があり、左車線を行き上信越道(藤岡/長野方面)へ進む。 久しぶりのバイクでの攻城。「はや旅二輪車定率割」を使っているので、高速料金は半額になるはずだ。これは今年の4月から11月までという期間限定の割引き。これが始まるからバイクの引退を延ばした、という事情があった。

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 6時45分、佐久平PAで1度目の休憩。ここまで2時間、150km。とにかく寒くて体の震えがとまらない。 PA手前のトンネルで気圧か寒さからか血圧が低下、トンネル内で意識が朦朧としてきて危なかった。休憩は100km以下で余裕のあるうちにすること、休憩はもっとこまめに、がほんと教訓。 PA内の食堂は7時から開き、体を温めるためにも飯を食うことに。「朝からスタミナ朝定食」660円。だし茶漬けがうまかった。体の震えも落ち着いてきたように思えた。
ここから目的地の上越高田ICまでは1時間45分、140kmとでてる。1時間半休憩のち、8時15分佐久平PAを出発。
 しかしすぐに具合いが悪化。30kmほど先の東部湯の丸PAで2時間静養。なんだろう。低体温症なのか、パニック障害とか閉所恐怖とかの類なのだろうか、 とにかく息が荒くなって意識が遠のく感覚、ハンドルを握る手から力が抜けていく感じ。自分の状況がわからずとてもおっかなかった。ベンチで横になり少し寝たが完全には回復せず、 低速運行をお願いした上で先頭は友人にたくした。 10時20分再出発。先頭を友人にチェンジしてもらうも、また息が荒くなるのでは、、としばらくはおっかなびっくりだったが、徐々に落ち着いてきた。静養と友人のおかげ。
 更殖JCTで右車線を行き、北陸自動車道/長野/上越方面 上信越道へ進む。進行方向には雄大な山々が並びそびえている。 後からマップで確認すると、飯縄山、黒姫山、妙高山、新潟焼山などなど。飯縄山は以前100名山登山で行ったことがある。
 12時、上越高田IC到着。下道に降りる。練馬ICからここまで290km。出発してから8時間程度か。途中、休憩と静養で3時間以上費やしていることが大きいが、それにしても遠かった。 ちょい休憩し、春日山城へ向かう。
 上越高田ICから春日山城までは10kmない。県道を北上する。予定になかった上越市埋蔵文化財センターという看板が目に入り、駐車場へ。ちょうど謙信の企画をやっている。入場無料だが、 謙信の格好をした武将隊が1名おり場の雰囲気を盛り上げてくれている様子。資料もパネルもそこそこ豊富でわかりやすかった。 13時40分、上越市埋蔵文化財センター出発。バイクはそのまま置きっぱなしにし、バイク用ブーツから歩きやすい靴に履き替え、徒歩で出発。埋蔵文化センター裏は広大な田園風景が広がっている。 まずは文化財センター裏にあるらしい監物堀(けんもつぼり)の遺構に向かう。しかし目的のものがはっきりしない。田んぼの用水路的な一部がそうなのだろうか。 そのまま総構遊歩道を北へ東へ進む。この遊歩道は遊歩道というよりも田園の畦道に近い。とてものどか。春日山城一体の低山を西に、広大な田園風景が広がる。 途中の春日神社の鳥居付近の道路から眺める遠望がビュースポットとされているようで、遠くの山並みを背景にした田園地帯の景色も楽しむ。
 ほどなくものがたり館に到着。ものがたり館は2階建の小さな建物だが、春日山城の紹介映像等も見ることができてよかった。ここでスタンプも無事にゲット。100名城はこれで76城目。 ものがたり館の中をしばし見学。そうそう、このものがたり館の前に、きれいに整備された監物堀の遺構がある。写真映えのするきれいな光景が広がる。
 さてものがたり館を出発。そこからまず、東城砦にいく。そしてぐるっとまわって春日神社の方へ。時間がなく神社はスルー。 しばらく北上し、林泉寺に到着。時間がないことと、500円という参拝料から入場は見送った。一番手前が惣門で、これは春日山城の搦手門を移築した、と伝えられている。 前に立つだけで歴史を感じる迫力のある惣門だった。惣門とその後ろにひかえる山門も写真に収めた。謙信公の墓はまたの再訪の折に取っておくことに。
 さてここからが春日山城の攻略の始まり。まず春日山神社まで歩く。登り坂の車道を多少歩いて到着。謙信公の有名な銅像を写真に収める。この銅像、本では至近距離からのアングルで収められている写真なのだが、銅像はちょっと小高い上にあり、近くから撮ることができない。 市が管理するようになってからは登ることができず、あのアングルはドローンだと、売店のおばさんが親切に教えてくれた。 さて、そこから本丸を目指して歩き始める。三郎景虎屋敷跡(景勝との跡目争いで敗れる)、三の丸、二の丸、本丸、天守台と一通り歩く。ここは180mとはいえ立派な山。一つ上のエリアに登るにつれ眺望が更に開け、その都度景色に目を奪われる。 遠くの山並み、眼下には頸城平野(くびきへいや)と越後府中、左端には日本海まで見える。本丸と天守台は隣同士にあるのだが、本丸の曲輪の方が高かった。 人はそこそこいるのだが、基本静寂。時折ウグイスの鳴き声が静寂を破ってきれいに響く。どうやらこの4,5月がウグイスの季節のようだ。 時間は何時ごろだっただろうか、まだもう少し歩けるね、ということで、そこから景勝屋敷、柿崎屋敷、毘沙門堂と見学。柿崎屋敷の曲輪は広かった。
 この辺りには、ノアザミ、カタクリ、シャガなど山野草も生えていて目を楽しませてくれる。せっかくの攻城中に不謹慎なのだが疲労も手伝い、徐々に話題はかたくりの花に独自の名前を命名するというフェーズに移る。 毘沙門天の慈悲、謙信の力こぶ、パープルスター、紫娘、カレンバナ、式部草、フィオレンティーナ、、、。 結局なにになったんだろうか。式部草に4.5点をいただいたところで、結局はカタクリに新たな名を授けてあげることなく、終了したような。 帰り道に、直江屋敷、千貫門、などを通ったが、そんな花の命名に明け暮れていたため、記憶が薄い。
 17時30分、文化財センターに戻り攻城終了。夕日を逆光に馬上に立つ謙信公像が、とても格好良かった。お腹が空いたので高田のラーメン屋へ。

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today's ramen

『ど・みそ京橋本店』 (銀座一丁目駅) 特みそこってりらーめん(背脂) 1100円



impressions

 新潟3城攻城ではラーメン屋は一つしか入らず、そちらは高田城の方に譲ることに。最近は都内のラーメン巡りブームが到来、行きまくっている。その中の一つ。春日山城は大満足だった、ということで、満足度の高い味噌ラーメンをアップ。
本当は、銀座の100名店「むぎとオリーブ」に行く予定だったのだ。しかしGWでお休み。銀座周辺にある他の100名店をまわるも、ことごとく休み。そんな中で空腹の極みでたどり着いたどみそさん。 みそらーめんはもともと大好きなのだ。特みそこってりらーめんを注文し待つと、ほどなく着丼。
とてもうまい。さすがみそらーめん。うまい。背脂入りの濃厚味噌スープがちぢれ太麺によく絡む。味噌はちょっとピリッとしてて花椒など香辛料が入っているのだろう。もやしもシャキシャキ、味玉も旨い。チャーシューも旨い。万人が美味いと言うだろう、満足度の高いラーメンだった。ごちそうさまでした。



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