川越城

Basic information
name川越城
another name河越城 初雁城 霧隠城
selected100名城 19
location埼玉県川越市郭町

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Photo

本丸御殿(左)の写真 本丸御殿(正面)の写真 本丸御殿(右)の写真

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本丸御殿(左)の写真 本丸御殿(正面)の写真 本丸御殿(右)の写真 本丸御殿(庭?)の写真 時の鐘 喜多院 五百羅漢アップ 五百羅漢全体 五百羅漢アップ 五百羅漢アップ とうりゃんせ

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Data




Map




Record

攻城日時

2019年3月23日

攻城手段

JR線

攻城記録

 東京近郊の100名城はそう多くはない。埼玉県川越市にある川越城は、遠出ができないタイミングで近々行こうと友人と話していた100名城。

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 江戸城を築いた太田道真は、その子道灌とともに川越城を築城。正確には、扇谷上杉持朝(もちとも)が1457年(長禄元年)に太田父子ら家臣に命じて築城させた。当時持朝は、山内上杉と連合し、古河公方(こがくぼう)足利成氏と、北武蔵の覇権をめぐって攻防を繰り返していた。築城は、扇谷上杉領の北端の拠点とするためと考えられているそうだ。
 時代は進み、1537年(天文6年)小田原城を拠点に武蔵国への進出を図る後北条氏が、川越城を攻め落とした。1546年(天文15年)扇谷上杉氏は、当時は対立していた山内上杉氏と古河公方ととも川越城奪還を図るも大敗(川越合戦)。後北条氏が北武蔵の支配を固めていった。
 1590年(天正18年)豊臣秀吉の北条征伐に際し、川越城は前田利家に攻められ降伏。同年8月に徳川家康が江戸城に入ると、江戸に近い川越には重臣の酒井重忠を置き、その後も幕府の有力大名たちが配置された。

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 さて、川越城。攻城から半年は経ち、記憶が怪しい。現存天守は12城しか残っていないが、本丸御殿になるとなんとたったの2城しか残っていない。高知城と川越城の2城のみである。実は川越城、とても貴重な遺構を抱えているのだ。本丸御殿は城郭の中にあったはずだが、現在は移築したのか、それだけがどどんと存在している。本丸御殿の中に入り見学。見学の記憶があまり定かではないのは記憶が遠いこともあるが、スタンプの大失敗がその原因の多くを占める。インクが紙に浮くくらい強く押してしまった。もう泣きたくなるほどであった。本を閉じることもできず、ずっと開いたまま、ずっと気にしながらの見学だった。そのため、川越城は全体的に記憶が薄い。ティッシュで拭くなどしたら原型がなくなるくらいコンモリとインクをたたえていて、その後2,3時間、川越を後にするまで風に当てながら移動した。川越城はもはや、イコールスタンプ失敗という記憶の残り方となっている。

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 後日、川越を再訪。喜多院にいく。川越大師喜多院。客殿、書院などが国の重要文化財に、五百羅漢像などが川越市の文化財に指定されている。1638年(寛永15年)の川越大火でほぼ全てが消滅したが、徳川家光は堀田正盛に命じて即復興させる。その時に、江戸城の紅葉山(皇居)の別殿を移築した。別殿を、客殿、書院に当てたということのようだ。客殿は徳川家光の誕生の間。天井もおそらく当時のままなのだろう。花々などが描かれており、赤ん坊の家光はきっと天井を楽しんでいたのだろうか。書院は春日局の化粧の間。小ぶりながら4部屋あった。五百羅漢像は、全部で530数体あるそうな。日本三大羅漢の一つらしい。それぞれ違う表情で楽器やウサギなどいろいろなものを持っていたりする。夜中に頭を触り、それが温かいものは、亡くなった自分の親の顔をしているそうな。ここは飽きない。長く楽しむことができる。

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today's ramen

『麺匠 清兵衛』 (JR川越駅前) 特製淡麗とりそば 980円



impressions

 特性淡麗とりそば980円を食す。
うまい!スープ、特にうまし。独立した料理のスープみたい。
チャーシューの他、鶏団子、鶏肉、タケノコ、各種入っていて飽きない。
とても満足。 鶏白湯系ではナンバーワンではないか。
かなりおすすめ。



ラーメンの写真
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