黒井城

Basic information
name黒井城
another name保月城、保築城
selected続100名城 163
location兵庫県丹波市春日町黒井

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Data




Map




Record

攻城日時

2023年11月3日

攻城手段

JR

攻城記録

 兵庫県の続100名城、黒井城。黒井城跡は中世末期、西丹波の盟主であった赤井 (荻野) 氏の居城跡で、織田信長の丹波攻略の際には2度にわたって明智光秀の攻撃を受けた城。山頂の曲輪群は堅固な石垣で護られ、三方に伸びる山稜上に城砦群を配し全山を要塞化したこの城の構えは、明智光秀の攻撃を長期に渡り凌いだ。

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 黒井城の歴史は赤松貞範 (則村次男) が丹波国氷上郡春日部荘を与えられたことから始まるといわれている。赤松氏の後は早くから赤松氏と対立していた荻野氏が城主となり荻野和泉守、 荻野伊与守秋清らが在城したが、天文23年(1554) 一族の赤井 (荻野) 直正が秋清 (赤井家譜では直正の叔父にあたるとう) を倒して黒井城に入城し、悪右衛門を称した。直正は 赤井・荻野一族を統率し、永禄8年(1565)には 丹波守護代の内藤宗勝を倒し、 氷上郡のほか天田郡、何鹿郡、船井郡の一部を制し、 丹後、但馬にも進出した。この時期に今日の遺構にみるような黒井城が完成した。
 天正6年(1578) 赤井直正は病死し長子直義の後見として直正弟赤井幸家(よしいえ)が黒井城を指揮した。天正7年3月、再度氷上郡は明智光秀、羽柴秀長の攻撃を受け、郡内諸城は次々に落城し、黒井城もまた孤立無援となり、8月ついに落城して光秀の丹波経略は終了した。この時の様子は 『信長公記』 (赤井悪 右衛門退参の事)に詳しい。
 この後黒井城には光秀の重臣斎藤利三が入ったが、利三は麓の下館 (現興禅寺)に入ったといわれ、利三女春日局はこの地で生まれたと伝えられている。
 天正12年(1584) 小牧長久手合戦に赤井時直 は再度黒井城に拠って遠く徳川家康に呼応した。 これが黒井城における最後の戦闘である。
 城跡は標高356メートルの猪ノ口山を中心に広がる。山頂は南北およそ150メートルを3つに区画し北から本丸、二の丸、三の丸と呼ぶ。 その一段下に、これらを取り巻くように平坦地があり、東廓西廓及び帯廓と呼んでいる。 本丸は西方と二の丸方向に石垣をもち、2の丸は北東及び本丸、三の丸に面した部分に石垣をもち、三の丸、東廓も南方に石垣をもつ。いずれも野面積で永禄から天正期の石垣と考えられる。 本丸、二の丸間には長さ3 0メートル、高さ5メートルほどの石垣が築かれた。
※以上、文化遺産オンラインHPから引用

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 さて、黒井城。12時31分篠山口発、福知山線福知山行きに乗り黒井へ。うっすら紅葉し始めた山や川、地域の人々の暮らしが垣間見える風景など、車窓はゆっくりと時間が流れる。途中から乗り込んできた中学生の集団もマナーがよい。黒井に13時8分着。ここから制限時間は1時間。黒い駅前は店はなく、静かで人気がない。

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 黒井城の整形されている山頂がはっきり見える。しかし今回は頂上まで登る時間はない。まずは春日住民センターでスタンプを押す。そして、春日局が生まれたとされる興禅寺へ。野焼きをしているのだろうか。白い煙と焦げ臭い匂いが漂う以外は、虫の音のみ。民家の前でちらほら住民を見かけるがみな音を立てておらず、そんな静けさの夏日の暑さの中、興禅寺に到着。古い山門がありなかなか立派。お線香が漂う普通のお寺さんという印象。少し奥にいくと産湯がある。
 さて駅へ戻る。本日3城中2城目。アキレス腱が痛くなってきた。14時8分黒井発、福知山線に乗り福知山へ。束の間20分間の休憩。14時31分福知山着。

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