松前城

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name松前城
another name福山城
selected100名城 3
location北海道松前郡松前町字松城

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攻城日時

2024年3月8日

攻城手段

JR東日本はやて 函館バス

攻城記録

 北海道の100名城、最北の藩、松前城。松前城は、ロシア等外国船の出没に備えて江戸幕府が1849年(嘉永2年)に松前藩に築城を許可。完成は1854年(安政元年)。1850年(嘉永3年)からの築城の縄張をしたのは高崎藩の兵学者市川一学(いちかわいちがく)で、軍学に基づいた最後の日本式城郭。 海防に主眼が置かれたため、三の丸には松前湾に向かって7基の砲台が置かれた。また城外にも9基25門の砲台が据えられた。一方、海防に主体をおいたため背後は手薄。1868年(明治元年)の箱館戦争の際、土方歳三ら旧幕府軍の攻撃を背後から受けて落城。築城当時の唯一の建造物である本丸御門(大手門)の石垣などで見られる銃弾痕が、戦いの記憶を今に伝える。
 このとき天守は破壊されなかったのだが、1949年(昭和24年)の火災で焼失。現在の天守は1960年(昭和35年)に鉄筋コンクリート造で外観復元されたものであるが、天守台石垣は現存。加工しやすい緑色凝灰岩を隙間なく積んだ切込接で築かれている。
 ちなみに、松前城のもととなったのは福山館(ふくやまだて) 。福山館は1600年(慶長5年)から6年の歳月を費やして築かれた陣屋だった。

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 天守台に続く六角形に加工された切石を積む亀甲積の石垣は、他の城郭ではあまり見られない形態。江戸中期以降に普及した技法といわれる。時間的、経済的余裕があったからこそ可能だった積み方。
 海上からの砲撃に備え、高さが約2.5mと低く抑えられているのも特徴的。
 天守の脇に建つ本丸御門は、門の高さが低く屋根が切妻造の特色ある櫓門。

 松前の地に人が住み始めたのははるか太古。ストーンサークルが発見された東山遺跡は縄文時代の遺跡。その時から既にこの地に人々の豊かな営みがあったことを知らせる。 北海道は、先住民族アイヌの地だったが、この豊かな地にひかれ早くから和人が渡ってきた。本格的な和人の居住が始まったのは平安時代末期。奥州に及んだ戦乱に押し出された人々が、渡島(おしま)半島各地に砦を築いた。その中で頭角を現したのが、松前家の始祖となる武田信広。信広はコシャマインの戦いを治めた功績を認められ、上ノ国花沢館の蠣崎氏に婿入りし、2世蠣崎光広が松前へ転居したことで、松前が蝦夷地経営の拠点となった。5世蠣崎慶広は豊臣秀吉、徳川家康から大名として認められ、姓を「松前」に改めて初代藩主となる。1606年(慶長11年)に福山館(後の松前城)を完成させた。 米がとれなかったため石高で表す手段がなく「無高の藩」と呼ばれた松前藩。そのかわり、遠くオホーツク海に至る北方の水産資源、北海道の広大な森林資源を一手に支配した松前藩は、交易によって豊かな繁栄を謳歌した。 北方の資源が松前藩から北前船と呼ばれる交易船によって京都大阪に送られる一方、雅な上方文化が松前に運ばれた。今に伝わる松前神楽や松前祇園ばやしなどには上方文化の影響が色濃く残っている。交易がもたらした豊かさは、上方にも劣らないほどの華やかな松前文化を育んだ。 その中で、独自の郷土芸能ばかりではなく、芸術でも独特の文化が花開いた。松前藩の家老であった蠣崎波響(はきょう)は京都を度々訪れ上方の文人と交流。日本画で著名な円山応挙(まるやまおうきょ)の流れを汲む画人としても知られている。 なかでも1789年(寛政元年)のクナシリメナシの戦いを治めるために松前藩に協力したアイヌの有力者たちを描いた「夷酋列像」(いしゅうれつぞう)は傑作の誉れ高く多くの模写を生み出した。
動乱の時代
相次ぐ外国船の出没により、北方防備に対して不安を抱いた幕府は、1807年(文化 4年)松前藩から蝦夷地の支配権を取り上げる。波響は家老として、陸奥国梁川に移封された松前藩の復領に力を注いだ。 幕末の動乱期、13代藩主松前崇広は、攘夷に反対する開明的大名だった。幕府再興に力を尽くし幕末政治に大きな役割を果たしたが後に失脚。 藩内では勤王派のクーデターが起こるなど藩政は混乱を極めた。明治元年、榎本武揚率い る旧幕府軍にいた新撰組副長土方歳三は松前城を攻め落とす。こうして松前藩の歴史は事実上の終わりを迎えた。
※以上パンフより抜粋

※松前藩について
アイヌへの容赦ない収奪とその反抗に苦しむ蝦夷地を所領としてできた松前藩は、蠣崎慶広(かきざきよしひろ)が豊臣秀吉、徳川家康から蝦夷地における交易の独占権を認められたことにより始まった。
1604(慶長9)年、松前氏は徳川家康から黒印状を受け、アイヌとの交易独占権を認可された。当時の蝦夷地では稲作が不可能だったため、松前藩は交易所を家臣に割り当て※商場制(あきないばせい)、交易による利益や商品流通への課税で藩財政を賄った。 松前藩は和人の土地(和人地)とアイヌの土地(蝦夷地)を分け、和人が蝦夷地に定住することを禁じた。
 蝦夷地近海に外国船が出没するようになると、脅威を感じた幕府は北方警備強化のため松前藩に城を築くよう命令。これを受け松前藩は1850年(嘉永3)福山館を広げる形で松前城の築城を開始し、1854年(安政元)に完成。 北辺警備の強化のため1854年(安政元年)に建てられた国内最後の日本式城郭。開拓使による取り壊しや太平洋戦争の空襲から辛うじて逃れてきた天守閣だったが、1949年6月5日の未明、松前町役場の当直室から出火。火の粉は松前城にも降り注ぎ、国宝の天守閣や本丸御門東塀などが焼失。

 ※ 松前の由来
「松前」とは昔のアイヌ語が転化した言葉で、マツオマナイやマトロナイ、マツオマイ、マトマイと言い「女の住む沢」「婦人のいるところ」という意味。先住民の住む地に和人の女性も住むという珍しさを表しているといわれている。今から800年ほど前に本州から人が入り込み、その後550年ほど前に蝦夷地松前家の祖である武田信広公が現在の福井県から上ノ国町に住み、アイヌの族長コシャマインを倒し、蝦夷地を支配下に置いた。

 ※ シャクシャインの戦い
1669年6月、シャクシャインの指導するアイヌ軍は松前藩へ蜂起。これがシャクシャインの戦い。蜂起は各地で発生し砂金掘りや交易に訪れた船舶や鷹待を攻撃、和人を殺傷した。シャクシャインは松前を目指し進軍、7月末には現在の山越郡長万部町のクンヌイまで攻め進んだ。

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 さて、松前城。昨日の天気予報の通り東京は雪。早朝の薄暗さの中しんしんと湿っぽい雪が降りてくる。駅へ向かう道は既にうっすら積もっている。中央線が人身事故で運転見合わせ、慌てたが丸の内線で概ね予定の時刻に東京駅に到着。 6時32分発はやぶさ1号に乗り木古内へ向かう。関東の車窓は珍しく白い雪景色。目的地までは6時間の長距離移動となる。10時40分に木古内に着き、バスに乗り換え、松前城付近には12時40分に着く予定。移動時間も多くかかるし、松前というところは何かのついでにはならずそこに行こうとしない限り行かない場所だ。だから100名城の最後の方に残してしまったのだが。
 さて、車窓は盛岡くらいまでは降雪、地面は白いが盛岡以北は晴れている。松前の予報も日中は10度を超える予報。東京とは違っていい天気なのかもしれない。 新青森を過ぎ、奥津軽いまべつを過ぎ、青函トンネルへ。青函トンネルは初体験。楽天の応援歌、竜飛崎からトンネル開始。ただいま入りましたとアナウンスがあるがごく普通のトンネルに入っただけな印象。20分ほどすると北海道側から出ていますというアナウンス。そしてようこそ北の大地へと。旅行気分をささやかながら盛り上げてくれるアナウンス。こういうの大切だなと改めて思う。 10時45分木古内到着。こんなことでもなきゃ絶対に降りないだろな。そう思うと余計物珍しい感じがしてキョロキョロしてしまう。

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 ところがアクシデント発生。旅きゅんパスを座席に落としてきたらしい。木古内の有人改札で発覚。写真を見せても現物がないと通れないと、メガネの木古内駅員は世知辛い。 カバンを底まで探すもなく、新函館北斗に着いた新幹線に連絡を取ってもらい、結果、車内にありましたと。世知辛い木古内駅員は、でも自分で取りに行くしかないですよ?と非情な表情で非情なことを宣告。同じこと言うにも表情だよ表情。言い方だよ言い方。
さて、バス時間も迫ってる。世話になったと駅員に詫びを伝えてダッシュ。走りながら松前出張所行きのバスが出かかっているのが見える。運転手さんを目で制して乗る意思を表示、こちらのバス運転手さんは決して世知辛くなく、待っててくれた、ありがたい。これを逃すと松前城に行くこと自体ができないところだった。
11時10分出発。函館バス、松前出張所行 1300円。Suica可。道中、運転手がすいませんちょっとトイレ行かしてください!と停車してトイレへ、すいませーんと普通に戻ってくるという牧歌的でのんびりしたこちらの日常を垣間見るにつけ、「でも切符は自分で取りに行くしかないですから、、」という世知辛いあの木古内駅員が対比として脳裏によぎる。
トラブルで動転して景色に目が行かなかったが、大きく広い根雪があちこちに広がり、空からはちらちらと雪が降りてくる。晴れ予報だったのだが。いやこの程度は晴れの範囲なのか。 海沿いを走りちょっと内陸を走りまた海沿いを走る。基本、車窓はずっと白い。 青函トンネル記念館、横綱の里横綱記念館(千代の山、千代の富士)などいくつかの小規模な観光スポットが車窓を過ぎていく。
そんなこんなしていたら、急に好天。松前町は燦々と陽光がさし根雪もない。気候が違うのだろか。北海道側の白神岬から本州の竜飛崎が見える。

 ほぼ時間通り12時43分松城バス停着。バス停の前は海。陽光に輝いている。風が多少あるくらいで穏やか、寒くない。バス停待合所にある手作り地図を見て、いざ松前城へ出発。海沿いの道路から中に入って進むこと5分程度。緑色凝灰岩の石垣が出現。そして松前城復元天守が見える。雪が少し残っている中少し歩いて松前城資料館に到着、スタンプを無事押すことができた。これで安心。資料館は4/10まで閉館だが、松前城のある公園内は入って散策することができる。入口に100名城達成おめでとう!という写真パネルが何枚も飾られている。おそらくここ松前城で達成した方々なのだろう。100達成記念を祝福する何かをお城で見たのは初めて。そうと知ってれば松前をフィナーレに設定したかもしれないな。
 さて、入口から入るとすぐに復元天守とその奥に重要文化財の現存本丸御門が見える。公園と言ってもそう広くはない。天守の前に広場がある程度。だがそこからすぐに海が見える。城、振り返れば海、よいロケーション。まず天守をいろんな角度から写真に収める。石垣は緑色凝灰岩のとてもきれいな亀甲積み。そして本丸御門へ。箱館戦争の銃弾痕が生々しくいくつも残る。さらにその奥に本丸表御殿玄関がある。松城小学校として利用され、新校舎完成後も正面玄関として昭和57年まで使われていたそうな。それらと海と一頻り拝む。
 さて出口から出て少し足を延ばすと松前神社があった。ここら一帯まで公園の範囲なのだとしたら広いのかも。振り返ると鳥居の中に松前城が収まるアングルを発見、姑息にも技に走っていることを自覚しつつ何枚もパシャリ。
 さて、お腹が空いた。松前町のページで調べるとおいしそうなチャンポンを提供する店発見。松前城を降りるとすぐにそこはあったので14時前、三久本店に入る。松前浜ちゃんぽん1200円を注文、おいしかった。野菜も多くほんとに美味しいスープだった。お腹も心も満たされた。
 と気づけばバス時間まであと15分ほどしかない。セイコーマートがあったのでそこでパンと北海道牛乳を購入。そして海沿いの松城バス停に向かう。田舎のおばあちゃんちのようなカビとみかんのようなすえた匂いのこもる待合所に入り、牛乳とパンを平らげ、外に出ると程なく時間通りにバスがきた。 14時53分松城 バス停発。次便が18時37分なので間に合ってよかった。函館バス、木古内駅前行 1300円、Suica可。16時25分、木古内駅前。道の駅みそぎの里きこない観光案内所でマンホールカードも回収。

 しかしまだ旅きゅんパスの方は回収することができていない。木古内駅から16時32分道南いさりび鉄道函館行きに乗り五稜郭でJRはこだてライナーに乗り換え、旅きゅんパスを回収のために新函館北斗に17時50分到着(1320円 1時間20分)。ミスった当初は新幹線で木古内から新函館北斗まで12分3420円と考えてたので、多少は安くあげることができた、が。 新函館北斗駅の在来線の拾得物預かり所でやっと旅きゅんパスを取り戻す!よかった。
 そこから仙台の指定を買おうと思ったら、それはJR東日本だから買えないと。JR北海道の新青森まで7190円を購入。新青森から先は買えないのだと、、。同じはやぶさなのに、旅きゅんパスの落とし穴だ。新青森からは最悪立つのか?まあよい、仙台に着ければ。 しかし盛岡からは満席、きゅんパスの人は特急券まるまる払えとアナウンスあり。詐欺だ。乗ってしまってるんだから払わざるを得ない。特急券は3380円か。また出費がかさんでしまう(結果、車内で駅員に徴収されることはなかった)。いったい今回いくらかかってるんだ、、
10000円(東京-新青森 新青森-仙台)
5800円(新青森-木古内)
7190円(新函館北斗-新青森)
11000円(仙台-東京)※
まあ34000円くらいなのか、、
本来は
44000円(東京-木古内22000×2)だから
それでもまあやっぱり安いは安いのか。
仙台で一泊しなきゃ本来はきゅんパスで完結するので25000程度だったのだが。まあ日帰りがお得な切符だからね。

バス代なども加えると
2600円(木古内-松前 1300×2)
1300円(木古内-新函館北斗)
だから
実質
今回は経費38000円 (ミスらなければ35000円)(通常料金は48000円)
ということになるか
まあ仙台に帰省する+2万弱で松前城に行けたのだから、よしとするか、、そこまで得じゃあなかったな
しかしこういうミスとは無縁だったので自信をなくすが、でも傷は浅かったことがわかってホッとした。木古内の次の新函館北斗が終点だから、切符はそこで止まってくれたわけだし、往復4000ちょっと払って回収できたのだ。不幸中の幸い。取り返しがつく範囲のミスでまだよかった。いさりび鉄道にも乗れたし、、鉄道ファンでは全くないが。


18時40分、新函館北斗発。はやぶさ48号に乗り、21時30分仙台着。太子堂に21時47分着。自分の足ではあまり歩いていないのだが、大移動の一日だった。おつかれおれ。

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today's ramen

『三久本店』 (松前町字福山) 松前浜ちゃんぽん 1200円



impressions

 地元御用達の大衆食堂。松前小島のだし昆布で仕上げた白湯スープにホタテエビタコカニなどの海鮮と野菜の旨みが凝縮された逸品、とのこと。喫煙可能がありがたい。ラーメン後ゆっくり一服なんて至福。おまけに誰もいないし居心地よかった。
 野菜も多くほんとに美味しいスープだった。お腹も心も満たされた。



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