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Data
- 築城年: 1560年(永禄3年)頃
- 廃城年: 1873年(明治6年)頃
- 城郭タイプ: 平城(輪郭式)
- 天守タイプ: 不明 ※天守台(戌亥隅櫓台)のみ残る
- 天守の縄張り: −
- 築城主: 武田信玄
- 主な城主: 武田氏 織田氏 上杉氏 田丸氏 森氏 松平氏 酒井氏 真田氏など
- 関係する武将: 武田信玄 真田信之(幸村の兄)
- 主な遺構: 石垣 土塁 堀 ※H16復元〜 本丸太鼓門 太鼓門前橋 北不明門 二の丸土塁
- 主な石垣のタイプ:
Map
Record
攻城日時
攻城手段
攻城記録
長野県の100名城の一つ、松代城。信玄が築城した海津城を、その後真田信之が入封しその三代目の時(?不確か)に名前を改め、松代城に。
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1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで、信之は東軍に、父昌幸と弟信繁は西軍につき、真田の家を存続させたことは有名。徳川の天下となって以降、信之は父の上田領を与えられた。1622年(元和8年)、上田の信之は、松代に10万石以上の藩主として移封。以後10代、250年間、松代は明治の廃藩に至るまで政治の中心として栄える。
※武田信玄の海津城時代について。1560年頃の築城時には、山本勘助が携わったとされている。上杉謙信への備えの最前線として、初期には小山田虎満が城代として入った。その後、高坂昌信(高坂弾正、春日虎綱など呼び名はいくつもあり)が海津城代として入り、1561年9月、信玄VS謙信の第4次川中島の戦いが、海津城の西にある千曲川付近で勃発。海津城は川中島における武田軍の本営。
以上のように、川中島の戦いにおける武田信玄の「海津城」と、真田の兄信之の「松代城」(※当時の名前は海津城?1600年森忠政の頃には「待城」と改名?)と、異なる時代の両方で有名なお城。
さて、松代城。松本城→長野道(上信越道?)→長野IC、63キロ53分。途中、千曲川の氾濫域に差し掛かり、松代Pに寄る。ここが川中島の古戦場に近いことを初めて知る。パーキングには、川中島の戦いの説明板や海津城など関係する城のモニュメントが多くありおもしろい。この松代Pは千曲川のほとりで、パーキングの高台に登れば河川敷が、多少は見える。あれから2週間以上は経つがまだ草木は倒れたまま、泥水で灰色。15時45分到着。松代城→真田邸→真田宝物館と駆け足で回り、17時30分に本日の予定を完遂。一日3城はやはりきつい。
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真田邸は9代藩主真田幸教の御殿。庭園を含めてしっかり残っている御殿造はとても貴重らしい。9代幸教は宇和島藩からの養子。宇和島藩は仙台伊達が祖。高遠城の保科?も徳川秀忠の側室の息子。もはや全国規模で血がシャッフル。宝物館は、真田の末裔の方が自ら所有していた代々の品を見ることができ、よかった。
この10月は、15号19号と大型台風が多く各地で被害が出たが、この松代城もその中の一つ。松代城のご近所の海津団地という民家やその周辺の畑は、台風19号での千曲川の氾濫で水に浸かった様子。民家の家の中はブルーシートが貼られ、畑もダメになっていた。松代城も北側部分まで水がきた模様。土塁が堤防になったか。ここは千曲川の本当に横も横。過去も氾濫が度々あったと展示パネルを読んだばかりであったが、19号直後の今、暴れ川ぶりを目の前の事実として実感する。
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