箕輪城

Basic information
name箕輪城
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selected100名城 16
location群馬県高崎市箕郷町西明屋ほか

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Photo

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Data




Map




Record

攻城日時

2021年4月24日

攻城手段

SR400

攻城記録

 群馬県の100名城、箕輪城。山上に多数の曲輪が展開した巨大平山城。元は長野氏の居城だったが、城主は目まぐるしく入れ替わり、最後の城主は井伊直政。榛名山の東南麓に広がる独立丘陵の中心に位置する。榛名山から派生した尾根を切る大堀切や本丸跡を巡る空堀は、戦国期としては最大級。H28年に復元された郭馬出西虎口門は、確認されている中で関ヶ原以前では関東最大規模の門跡。門跡の発掘調査の結果、礎石の配置から2階建ての櫓門と推測されている。

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 箕輪城の創築については諸説あるが、戦国時代初期1500年前後に長野氏によって築城。長野業尚(なりひさ)、憲業(のりなり)、業政(なりまさ)、業盛(なりもり)の4代が箕輪城を本拠にしていたと考えられていたが、近年の研究ではまた異なる変遷説も。長野氏は武田氏の西上野(こうずけ)侵攻に際し、箕輪城を本拠に最後まで抵抗。しかし1566年(永禄9年)に武田信玄に攻め落とされた。
 箕輪城はのちに武田氏、織田氏、小田原北条氏、徳川氏の城となった。この地は相模の小田原北条氏、甲斐の武田氏、越後の上杉氏から侵攻をくり返されたところであり、目まぐるしく城主が入れ替わる。
 天正18年(1590)、徳川家康から箕輪城を与えられた井伊直政が、城を近世城郭に改築した。箕輪城の最後の城主は井伊直政。井伊直政は箕輪城に封じられた8年後の1598年(慶長3年)に城を高崎に移し、箕輪城は廃城となった。

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 さて、箕輪城。新型コロナの蔓延で今年も思うように攻城ができず、新たな城としては昨年末の平戸城と金田城以来4か月ぶり。ファミリーマート練馬高野台店で6時30分友人と合流。7時出発。練馬ICから関越道に入り、8時30分前橋ICを降りる。まだ朝夕の気温差があり冬服でちょうど良いくらい。新型コロナ変異種が広まり始め、東京、大阪、京都、兵庫の4都府県に明日から3回目の緊急事態宣言が発令される。品川ナンバーのツーリングはとても気を使う。煽られたりしないといいのだが。今年の秋にはバイクを引退する予定。花道の一つとなるようなよいツーリングにしたい。

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 さて、まずはスタンプと資料をもらうべく「箕郷矢原宿カフェ」へ。スタンプや資料は近くの箕郷支所にも置いてある。9時頃に矢原宿カフェに到着。10時オープンなのでまだ開店前、おばさんが掃除をしている。あがってどうぞ、と言ってくれたので上がらせてもらう。古めかしい大きな蔵もあり雰囲気のよいカフェだ。しかし開店までは待てない、そそくさと箕輪城へ。看板を見ながらバイクで北上、ほどなく登城口に到着。「箕輪十二万石城主 井伊直政公」と書かれた赤いのぼりがやわらかい風にはためいている。
 10時、搦手口から出発。歩いてほどなく深い空堀と郭馬出西虎口門が見えてくる。この場所で長野氏が武田の猛攻を何度となく耐えた、さすがは守り堅固な城。西虎口門のすぐ横には大堀切を渡ることのできる唯一の土橋がある。深い空堀沿いを進みUターンする形で郭馬出西虎口門に辿り着くのだが、矢を射かけられた足軽はここでほぼ全壊だろう。そんなことを考える頭とは裏腹に、景色はのどか。快晴の空、ほどよく暖かく、たんぽぽも咲いている。あまりにのどかで口も歩調ものんびりになってくる。 虎口門をくぐり曲輪内へ。本丸、二の丸、三の丸と進む。三の丸の門跡にはしっかり野面の石垣が残っていた。ここは群馬県高崎市。寒いこちらでは季節はやや遅い春で、4月下旬の今いろいろな花が咲いている。木橋の下の堀底をのんびり歩いていると珍しいことに野生の食虫植物を発見。攻城であることをふと忘れてしまう。秀吉時代の井伊直政も、戦いの束の間にこの優しい自然に触れていたのだろうか。のんびり搦手口に戻り、11時30分岩櫃城に向けて出発。時がゆったりと流れ、忙し無い日常を忘れさせてくれるとてもよい時間だった。

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today's ramen

『きのえね亭』 (榛名湖畔) わかさぎ天丼 1100円



impressions

 榛名山を挟み、28号線で箕輪城から岩櫃城に向かう途中に榛名湖がある。その榛名湖のほとりの「きのえね亭」に入る。客は少ない。ラーメンが食べたかったのだが、名物を、ということでわかさぎ天丼1100円を食す。榛名湖はわかさぎが名物のようだ。わかさぎの天ぷら、期待を裏切らずおいしかった。

 さて、この店名「きのえね」。きのえね=甲子。甲子園などにも使われているよく目にする言葉だ。本来の意味を初めて知ったので書き記しておく。
 「甲子」を調べるとこう書かれている。「干支の一番目」「十干の初めの甲と、十二支の初めの子が合っする年、または日」「年の干支は60年目に一巡するので60年を一甲子とも言う」。、、干支の一番目?干支の一番目は子じゃないの?と。これ常識なのだろうか、今の今まで知らなかった。
 干支とは、そもそも子〜亥ではないらしい。実は干支とは正式には「十干十二支」(じっかんじゅうにし)と言い、「干」と「支」とは本来別の二つの言葉がくっついたもの。我々が「干支」と普段言う子〜亥は、「干支」ではなく、正確には「支」。「十二支」を指している。
 「干」について。十干は10種類。「甲乙丙丁戊己庚辛壬葵」(こうおつへいていぼきこうしんじんき)。また甲は「きのえ」乙は「きのと」のようにそれぞれ木火土金水の兄弟。?なんのこっちゃ。
 契約書なんかにもよく出てくる甲は…乙は…と日常生活でも十干は使用されている。実はあれが十干だったらしい。また、恵方巻の方角もそう。歴史的な事件や戦争もそう(庚午年籍672、壬申の乱672、戊辰戦争1868、甲午農民戦争1894)。甲子園は1924年(大正13年)竣工、この年の干支が「甲子」だったようだ。やはり一番目だから縁起が良いということで名前に用いやすいのだろうか。ということは「きのえね亭」も1924年?1984年?しかしHPには1955年(昭和30年)とある。由来は謎のまま。
 還暦とは生まれた年の干支に還ること、、、だから60年なのか、なるほど。今年2021年は「辛丑」(かのとうし)。辛丑の人は2021年生まれと一つ前の1961年生まれ。人間の寿命から同じ干支は同時に2世代までしか存在できない。とても勉強になった。

                       
十干
こうきのえ
おつきのと
へいひのえ
ていひのと
つちのえ
つちのと
こうかのえ
しんかのと
じんみずのえ
みずのと

干支の1番目は「甲子」(きのえね)、2番目「己丑」(きのとうし)、3番目「丙寅」(ひとえとら)、23番目「丙戌」(ひのえいぬ)、25番目「戊子」(つちのえね)、54番目「丁巳」(ひのとみ)、55番目「戊午」(つちのえうま)、60番目「葵亥」(みずのとい)。 あの「丙午」は43番目。



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