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Data
- 築城年: 1214年(建保2年)、1593年(文禄2年)、1625年(寛永2年)
- 廃城年: 1871年(明治4年)
- 城郭タイプ: 平山城(連郭式)
- 天守タイプ: なし ※御三階櫓〜独立式層塔型3重5階 非現存
- 築城主: 馬場資幹、佐竹義宣、徳川頼房
- 主な城主: 馬場氏、江戸氏、佐竹氏、武田氏、徳川氏
- 関係する武将: 徳川斉昭、徳川慶喜
- 主な遺構: 薬医門(現存)、弘道館、土塁、空堀
- 主な石垣のタイプ:
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Record
攻城日時
攻城手段
攻城記録
茨城県の100名城、水戸城。御三家の水戸徳川家が幕末まで世襲。水戸城というと、9代藩主徳川斉昭、そして息子15代将軍慶喜をすぐに連想する。 城は、北を那珂川、南を千波湖(せんばこ)に挟まれた丘陵に築かれ、東から東二の丸、本丸、二の丸、三の丸が連なる連郭式。 城内の建物のほとんどは平屋で、二の丸の御三階櫓(三重五階)が天守の役目を果たした。石垣を使わず土塁のみで造られ、御三家の中では最も質素な作りと言われる。 1852年(明治5年)の火災と、1945年(昭和20年)の空襲で場内のほとんどが焼失。薬医門、藩校、土塁と空堀が残るのみ。
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水戸城は、歴史をさかのぼると城の始まりは鎌倉時代になる。鎌倉時代に馬場資幹(すけもと)が築城し、以来、200年以上にわたり馬場氏の居城として引き継がれてきた。
しかし室町時代中期に江戸通房(みちふさ)が城を攻略、さらに天正18年(1590年)には佐竹義宣(よしのぶ)が江戸氏を滅ぼして入城。馬場→江戸→佐竹と城主が遷移する。
佐竹義宣は本拠を太田城から水戸城へ移し、水戸城の大改修を始める。しかしその途中で秋田へ転封となり、徳川家康五男武田信吉(のぶよし)に与えられた。
武田信吉が亡くなった後は、家康10男徳川頼宣(よりのぶ)が入封し、1609年(慶長14年)には11男徳川頼房(よりふさ)が受け継ぐ。
水戸城は頼房により再び大改修。徳川御三家の一つ水戸藩の居城として幕末を迎える。
※弘道館
9代斉昭(なりあき)が、1841年(天保12年)に真の日本人を育成することを目的に開館。慶喜も弘道館で学んだ。建物の一部が三の丸に残されており重要文化財の指定を受けている。
さて、水戸城。100名城ではちょうど70城目となる。バイクで城攻めというタイトルをつけながら、バイクによる攻城からはしばらく遠ざかっており、そろそろどこかで、、、と考えていた。水戸城は常磐道に乗れば2時間140キロ。敷居も比較的低い。新型コロナの状況も横ばい。GoToキャンペーンで世間全体が動き出しており、品川ナンバーの後ろめたさも多少軽減。週間予報もよく、決行。
甲州街道の永福入口手前のファミマに、友人と5時集合。今日の予想最高気温は20℃、だが早朝はそこそこ肌寒い、高速に入れば尚のこと。コンビニ前であれこれ準備。ももひきと靴下の間の露出部分を塞ぎ、上着は5枚下は2枚、用意したマックスを装備。
準備が整い、5時25分発。永福入口から首都高4号新宿線に乗る。首都高はとても久しぶり。西新宿JCTを右に、代々木、外苑と進む。2021年ですら開催が危ぶまれる今、定期的に現れる「TOKYO2020」の看板が虚しく過ぎ去ってゆく。
首都高都心環状線を、竹橋JCT、箱崎JCTと進む。隅田川が右に見えて来た。両国JCTで隅田川を渡り、ここからは向島線。左に隅田川、右にスカイツリーを見ながら風を切って走る。秋晴れの早朝、とても気持ちがよく、バイク冥利に尽きる。
幸い首都高は混んでおらず、遅いトラックの後ろにつき80km程度で安全に走行。久しぶりの首都高で身構えていたが、思いのほか楽に順調に走ることができる。荒川を渡り堀切JCTを通過し、三郷線へ。そして常磐道へ。東北道と常磐道の分岐での車線変更で焦ったくらいでここまでとても順調。
バイクは常磐道を進む。利根川を渡り、つくばJCT、土浦、千代田、石岡と進み、7時美野里パーキング着。ここまで1時間30分、100km。下は2枚、着込んでるためそう寒くはない。順調。水戸北スマート出口で高速を降りる。
高速を降り、那珂川を左にして道なりに進む。目指すは水戸城もしくは弘道館だが、まだ見えてこない。看板もない。北辰一刀流を多く輩出したという東武館を通り過ぎた。が、なかなか目的地にたどり着くことができない。
迷って、8時20分三の丸庁舎に着く。守衛さんに弘道館までの行き方を聞き、ついでに庁舎前の空堀を写真におさめ、引き返す。守衛さんに教わった通りに進んでみたが、結局また駅前に出て、渦を巻くようにさらに進むことに。
後から分かったのだが、ここは水戸学の道。渦巻状に大手門の方に入り込んでいくのだ。知らないと水戸城を中心にぐるぐる回って辿り着けない感覚に陥る。
8時40分ようやく大手門着。大手門横のスペースにバイクを停める。後ろが弘道館、前が復元大手門。復元大手門が立派で、胸が高鳴る。まずはその復元大手門をくぐり学校エリアへ。
スタッフのおじいさん曰くこのエリアに民家は一軒もないらしい。全てが学校関係の建物。二の丸展示館でちょっとしたパネルや展示物をのぞく。水戸光圀編纂の「大日本史」が3,4部ほどガラスケースの中に陳列されている。
ひとしきり学校エリアを流し見て、奥にある現存の薬医門へ向かう。水戸一高敷地内にある薬医門。水戸一高には空堀を渡る橋を通る。空堀には今では線路が敷かれ、眼下には電車が走る。遺構をうまく利用したものだ。さて校門を通過し、奥に薬医門が見えてくる。今日はこの薬医門を一番の楽しみにしてきた。薬医門はテニスコートの横にあり、ありがたみをおそらく知らないジャージの高校生が普通にくぐって登校している。
近くで見ると、ますます立派。存在感のある門である。薬医門は佐竹義宣時代に造られたとされる。その屋根はスネ夫ヘアーのよう。銅板なのか?薄い金属らしきものを貼り、分厚い屋根が特徴的。
どっしりと、相撲取りの大銀杏のような形をしている。薬医門はアンバランスだと説明版にあったが、横から見ると不均一なことがよくわかった。大きな屋根の真下に柱があるのではなく、やや後方に中心がある。こんなに重そうでバランスも悪いのに、よくぞ現在まで保っていてくれたものだ。屋根は軽いのだろうか?中は空洞なのだろうか?こういう時にガイドさんがいてくれたらと思う。一頻り写真に収める。
その後、水戸学の道を進み、ぐるっと時計回りに渦を巻くように回る。水戸城は坂があって門があるという造り。桝形も備えている。石はないが防御はかなり堅そうな印象。
道路沿いの反対側に水戸黄門神社を発見。そう大きいものではない。家康11男頼房の三男、水戸黄門こと徳川義公生誕の地でもある。その後さらに水戸学の道をぐるっと回る。
復元中の二の丸角櫓も遠くにちらっと見えたため、少し戻ってよく見える場所を探しパーキングの敷地から拝むことができた。来年2月完成予定。土塀も含めて既に外観は完成している印象。手前にある駿優予備校が景観の妨げになりそうで少し残念。一周して、スタート地点の復元大手門の前に帰ってきた。
さて、弘道館へ。現存の門には弘道館の乱の生々しい銃痕がついている。受付所に進みチケットを買う。400円、Suica可。券売所脇でスタンプ押印。これで100名城はちょうど70城目。2019年に本格的に回り始めてまだ2年。感慨深い。
ところで、弘道館前には大きな桜がある。あとで知ったことだが、昔の絵図にもこの桜は記されてあり当時は小さかった。今ではこんなに立派に成長。現在と絵の中にある同じ桜を見比べるとおもしろい。
さて、弘道館の中へ入る。慶喜が朝廷に恭順の意を示すため静かに過ごしたスペースなど、一通り見学。
中でも一番目立っていて印象的だったのは、弘道館入ってすぐの巨大な掛け軸。そこに書かれている「尊攘」の大きな墨字。斉昭の1856年頃のものらしい。さすが水戸藩。尊王攘夷のパイオニア。
ちょうど司馬遼太郎の「燃えよ剣」を読んでいるので、当時の世の風潮、水戸の立ち位置などがわりと頭に入っている。尊攘の墨字を目の前にして、無思想な現代人もピリッと背筋が伸びた。
さて弘道館を出て、敷地内を歩く。建物や石碑などをぶらぶらと見学する。弘道館記碑が納められている八卦堂。斉昭が江戸から持ち帰った梅を水戸城の庭園や偕楽園に植えさせた、などと記されている種梅記(しゅばいき)。
周りを見ると確かに梅がたくさん。同じく斉昭作の鐘、「学生警鐘」も釣られていた。斉昭という人物が尊攘思想だけではなく文化学問にも熱心だったことをそこかしらで感じることができる。
さてそろそろ。発たねばいけない時間になった。本日は3城予定。11時、水戸城を出発、バイクで笠間城へ。
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