水城

Basic information
name水城
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selected続100名城 182
location福岡県大野城市(太宰府市、春日市にまたがる)

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Record

攻城日時

2020年3月7日

攻城手段

西鉄太宰府線 西鉄天神牟田線 徒歩

攻城記録

 福岡県の続100名城、水城。「〜大野(オオノ)と椽(キ)、二城(フタツノキ)を築かしむ」「筑紫国に大堤(おおつつみ)を築き水を貯へしむ、名づけて水城(みずき)と曰ふ」『日本書紀』
 663年、白村江の戦いで敗れた中大兄皇子らは、664年に水城を、665年に大野城と基肄城を築いた。援軍を送った百済が滅亡し、高句麗と新羅が倭に攻め寄せてくるのでは、という恐れから、国を押しての大事業。太宰府を守るべく、水城と、そして古代山城の先駆けと言われている大野城を急いで造らせた。

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 斉明6年(660)、百済が新羅、唐によって滅ぼされたその三年後、663年に白村江において百済再興を目指す倭の派遣軍と新羅、唐の連合軍が激突し、倭は大敗。「白村江の戦い」である。 この敗北によって大和朝廷は、勢いに乗った唐、新羅が自国に攻め入ってくるであろうと、かつて経験したことの無い強い恐怖心を抱いた。まさにこの恐怖心がもたらしたのであろう、敗戦後、なり振り構わずに矢継ぎ早の各種防衛策を実行した。
 水城とは、この防衛策の一つで、博多湾から侵攻が予想される敵から太宰府を護るために、土塁と水堀によって築かれた巨大な防御壁のことである。なお、「水城」という名称は、下記の日本書紀に由来している。
 日本書紀 天智三年(664)の条
 「この歳、対馬嶋(つしま)、壱岐嶋、筑紫国などに、防人と烽とを置いた。また、筑紫に大きな堤を築いて水を貯えさせ、これを水城と名づけた。」

 結局は、天智天皇が恐れた唐、新羅のよる侵攻はなかった。唐は白村江の戦いに勝利すると、その矛先は日本ではなく高麗へと向かったのである。そしてこれを滅ばしてからは、朝鮮半島を統一するために何とかして唐の覇権を排除したい、ということになり、かつての盟友新羅と対立関係に入る。日本への侵攻などとても考えられる情況ではなくなってしまった。この朝鮮半島の変化に助けられ、水城が戦場となることはなかった。
 ところが天平期にはいり、日本と新羅との関係が急速に悪化する。さらに、唐(玄宗皇帝)では、「安禄山の乱」が勃発して政情が混乱し、再び朝鮮半島、大唐に最も近く日本の玄関口である、筑紫、筑前の防衛が重大な課題としてクローズアップされるようになる。この様子は「続日本紀」に明記されている。
 天平神護元年(765)3月10日
 「太宰大弐、従四位下の佐伯宿禰今毛人を怡土城(いとじょう)造営の専知官(専任者)に、太宰少弐、従五位下の采女朝臣浄庭(きよにわ)を水城を修理する専知官に任じた。」
 もしこの新羅討伐が実施されていれば、太宰府は日本の最前線の統合参謀本部となり、それを守る水城は軍事的に重要な役割を担ったはずであるが結局は、ここでも水城は戦場とはならなかった。対新羅強硬派の太政大臣恵美押勝(藤原仲麻呂)がその後ろ盾であった光明皇太后が760年に死去してから4年後、道鏡の台頭を巡って孝謙太上天皇とも対立するという窮地に追い込まれる。それを打開するために起こした軍事行動は、吉備真備が率いる孝謙太上天皇軍に敗れ殺害される。この結果、強硬に推し進める中心人物を失った新羅討伐は中止され、水城は再び戦場となる危惧から免れることができた。

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 さて、水城。大野城の攻城後、17時50分太宰府発、下大利に18時5分着。暗くなる前に、と急ぐ。間に合うか。下大利で降り、水城館を目指す。水城通り、水城橋、ラーメン水城。水城という言葉はたくさん出てくるが、どこにも水城感はない普通の街という印象。

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 しばらく歩くと、ろうそくの火が灯るようにぽっと水城跡の碑が現れた。急に水城感が漂い始める。駐車場内に碑があり、水城跡とある。その奥には夕暮れの田園風景が広がる。これが水城か?と疑うが、よくよく目を凝らすとサイドが堤防のように盛り上がっている、ように見える。はっきり言うとよくわからない。よくわからないが、1300年前は水城であったその場所で、3月の夕暮れの田園風景にたたずむだけで、満足。自然は今も昔も変わらず美しいものだと思う。水城館もそのそばにあった。大堤防の遺構かと見間違ったが、裏に回ると建築物であることがわかり、水城館であった。建物を堤防風に覆っている素敵な造りである。辺りは既に薄暗い。碑や説明板を写真に収め、水城館の上の展望スペースへ。正面(西)に水城跡の一帯、右後ろ(北東)に大野城のある四王山が見える。この二つで、太宰府を守ろうとした。その規模の大きさに、当時の高句麗と新羅の強大さが想像できる。この規模の、守りのための機能を作らなければ、もし攻め込まれた時に防げないと考えたのだろう。結局は攻め込まれなかったのだが。夕暮れの展望スペースでしばし休憩。今日は歩き詰め。さすがに疲労困憊。18時45分頃、水城駅へ出発。本日は、あともう1城ある。既に暗いが、、。ちなみに福岡は、交通系ICカード、Suica使用可。

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