名護屋城

Basic information
name名護屋城
another name名護屋御旅館
selected100名城 87
location佐賀県唐津市鎮西町名護屋

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Data




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Record

攻城日時

2020年3月9日

攻城手段

昭和バス

攻城記録

 佐賀県の100名城、名護屋城。中国大陸、朝鮮半島侵略を目論んだ豊臣秀吉が、出兵基地として佐賀県唐津のこの地に築いた、名護屋城。縄張りは黒田官兵衛が担当。1592年〜1598年の文禄・慶長の役。それまでの日本と朝鮮の長い交流を一時断絶させた侵略戦争で、戦いは7年に及び、戦禍は朝鮮半島全土に及んだ。

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 この戦いには全国の主だった武将のほとんどが参加。極めて短期間に一大都市を誕生させた。秀吉は名護屋城を、諸大名は名護屋城の周囲約3km圏内に140もの陣屋を築いた。それらは鎮西町を中心に呼子町、玄海町まで広がり、今でもその半数に石垣や土塁などの遺構が残っている。年代が確実で、遺構の保存状態もよいことから国の特別史跡に指定された。これまでに、名護屋城跡の他、豊臣秀保陣跡、堀秀治陣跡、加藤嘉明陣跡、木下延俊陣跡が整備されてきた。

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 さて、名護屋城。前日の18時45分に佐賀発、20時過ぎに唐津着。1時間20分、1130円。唐津線は交通系ICカード使用不可。3000円程度の安いホテルに宿泊。ここまでがカプセルホテルに2連泊だったので、ホテル快適。コンピュータの割り振りミスとかで、一人なのにツインの部屋をあてがわれた。明日は九州攻城最終日。スマホで調べてもバスがはっきりせず、翌早朝にバスセンターに直接行って確かめる他ない。早く寝る。

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 翌朝。唐津駅北口のホテルからすぐ、大手口バスセンターに到着。バスセンターから、昭和バスで6時37分出発。乗り継ぎはないが、呼子で一度精算しなければならないらしい。「よかですよお」と大声で笑う人懐こそうな運転手さんの言葉や、殿の浦、伊達政宗陣跡という通過するそれっぽいバス停名も、攻城気分を盛り上げてくれる。ちなみに昭和バスは交通系ICカード使用可能。また八床入口バス停以降は乗客は運転手に声をかかれば自由に降りられる方式らしく、そのようなアナウンスがあった。新鮮。
 7時21分、名護屋城博物館入口着。バス停前に道の駅がある。その名も「道の駅桃山天下市」。いかにもそれっぽい。まだ早朝で道の駅は準備中。博物館はバス停から150mくらい車道を登ったところにある。博物館は新型コロナの影響はなく開館のはずだが、月曜定休のため、本日は休館。側面の通用口に回り、寝起きのジャージでテレビを見ている守衛さんを呼び、スタンプを押させてもらった。守衛さんは嫌がらず、慣れた対応。休館日でも早朝対応してくれるのはありがたい。さて、名護屋城跡へいざ出発。巡った大まかなルートは、大手口→東出丸→三の丸→本丸→天守台→水手曲輪→引き返して、遊撃丸→二の丸→弾正丸→搦手門→さらに引き返して、山里丸→広沢寺。2時間以上を使いじっくり回った。名護屋城はご存じのように、朝鮮出兵の後役割を終え、島原天草の乱を教訓に一揆勢などが立て篭もらないように石垣が破却され、資材は唐津城の築城に使われ、遺構はほぼ土塁と石垣しかない。しかし「肥前名護屋城図屏風」という狩野派の絵師が描いた当時の名護屋城の図が至る所に掲示されていて、イマジネーションを容易に膨らませてくれる。石垣を見ては、往時はここに瓦の土塀があったのだと、出丸を見ては立派な櫓があったのだろうと、現在と往時の絵を見比べて想像すると、とても楽しい。
 さて、具体的に追っていく。まずは大手門から入る。大手門の上り傾斜は、当時は向かって右側に土塀があった。左側の高い石垣は破却と自然崩壊のためか、大きく崩れている。大手道をまっすぐ進むと、東出丸にぶつかる。東出丸は往時は櫓台が設置されていた。そこから三の丸へ。三の丸は広く、井戸跡などもある。平日の月曜で、博物館も閉まっているし、新型コロナの影響もあるのか、観光客は誰一人いない。三の丸で道が分岐しているが、まずは本丸へ。本丸に着くと、広大な海が見える。奥に天守台か見え、歩を進める。天守台は、本丸の高さからだと多少盛り上がってるくらいの高さ。天守台に立つ。右側北東方面には呼子大橋と加部島が見える。正面北方面には、加唐島、鎮西松島が見え、その奥にはぼんやりと壱岐島が見える。見えないが、その延長上に、対馬、韓国、朝鮮半島があるはず。なるほど、朝鮮出兵の出兵場所としては絶好な位置にある。秀吉も、徳川家康や伊達政宗、堀秀治、小早川隆景など戦国武将オールスターズも、海の先にあるはずの朝鮮半島を想像して何を思ったか。日本には与える領地が既にもうないジリ貧状態の秀吉は、士気は高かっただろう。そしてオールスターズはというと、金と人力を割く仕事のため秀吉ほど気乗りはしなかっただろうが、人参の恩賞を思い、自分の土地を切り取ってくるぞくらいの士気はあったのではないだろうか。天守台跡には礎石の一部が残っている。往時はここに20数mの天守があったのだ。それぞれの事情と思惑を抱え、ここで会議を繰り返したのだろう。さて、本丸から遊撃丸へ。遊撃丸は明の使者をもてなした場所、だったはず。そこから二の丸へ進む。二の丸にも兵の移動を容易にする「合坂」(あいさか)という向かい合わせの階段がある。その合坂の石段の底部から積み重なった瓦が出土したらしい。島原天草の乱後の破却の様子が窺える。原城ほどの徹底ぶりではないが、ここ名護屋城も櫓台石垣の門は崩されたりしている。崩されてはいるが残存部分の石垣を見ると、面がとてもきれい。この名護屋城の石垣は、割石のその割った平らな面を表面にして組んであるのが特徴で、見た目がきれいなのだ。弾正丸、搦手門まできたところで引き返し、水手曲輪へ。水手曲輪には水手口と道があったらしい。どの曲輪も通らずに本丸に通じていることから、何か特別な役割を担っていた道だそうな。そして、城郭を下り、山里丸へ。一度車道に出て少し移動し、山郷里丸の階段からまた登る。山里丸は、秀吉が妻たちと過ごした場所。茶室や能を鑑賞する場所もあった。いまは広沢寺という寺になっていて、自家用車がとまり、物干し台が置かれており、名護屋城の中では一番それっぽく感じられないところだった。加藤清正が秀吉にと持ち帰ったと伝わる樹齢400年のソテツを見学して出る。ここでそろそろ時間切れ。車道の向こうの台所櫓を遠くに見て、本丸経由で引き返すことにする。
 10時28分、名護屋城博物館前から呼子行きのバスに乗る。やってきたのは地方病院の送迎ワゴンのような、およそバスには見えないバスが来て、戸惑う。運転手にバスであることを確認して乗る。ワゴン内は3列で定員8人。現金で200円。自分を含めて3,4人くらいか、車内は高齢の方々がほとんどで、揃って病院に向かっているかのようだ。ほどなく呼子に着き、待ちの隙間時間で裏に回り、呼子町を一瞬だけ散策。呼子朝市の建物も見える。さて、呼子で大きな普通の昭和バスに乗り換え、大手口バスセンターに、11時18分到着。名護屋城は、じっくり見ることができたこともあり、とてもおもしろくて大満足。博物館の資料は見ておらず、徳川家康陣地など回れなかったところもあるので、再訪の機会を待ちたい。本日は1城目。4日間で11城目。本日はこれからもう1城。九州攻城もいよいよフィナーレが近づく。

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