名古屋城

Basic information
name名古屋城
another name金鯱城(キンコ キンシャチ) 金城
selected100名城 44
location愛知県名古屋市中区本丸

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天守閣 天守閣 清州櫓

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2019年

那古野交番 遠くに見える名古屋城 加藤清正像 南西櫓 門 門 門 堀 復元本丸御殿 天守閣 天守閣 天守閣 天守閣 清正の高石垣 天守閣 天守閣 堀 天守閣 清正の高石垣 清正の高石垣 天守閣とEV 天守閣礎石 清州櫓外観 清州櫓 清州櫓 清州櫓外観 清州櫓内部 清州櫓内部 清州櫓内部天井 清州櫓から堀を眺める 清州櫓からの風景 清正石

2022年

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Data




Map




Record

攻城日時

2019年11月14日
2022年8月15日

攻城手段

東海道新幹線のぞみ

攻城記録

 愛知県の100名城、名古屋城。徳川家康による大阪城への包囲網・防衛の拠点で、最大最強の近世城郭。

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 史上最大の延床面積を誇った大天守で、現存天守姫路城の3倍以上の容積を持つらしい。現存する貴重な西北隅櫓(清州櫓)は三重三階で、高知城など小さな天守よりも遥かに巨大。名古屋城は、城郭としては国宝第1号に指定された名城であったが、太平洋戦争で焼失。1945年(昭和20年)5月14日の朝、アメリカのB29による1時間以上の名古屋への爆撃。天守、本丸御殿など主な建造物が焼失。金鯱を非難させるために組んでいた足場に焼夷弾が引っ掛かりそこから上がった炎で天守は炎上したらしい。ちなみに金鯱は純度80%だったそうな。西北隅櫓など6棟のみ焼失を辛うじて免れる。
 この名古屋城の地には、室町時代から「那古野城」が建っており今川氏が治めていた。室町幕府が滅び戦国の世に突入すると、1538年(天文7年)頃、台頭した織田信秀(織田信長の父)が、今川氏豊(今川義元の弟)から那古野城を奪う。その後、信秀は1546年(天文15年)頃に「古渡城」を築き、自分はそちらへ、那古野城を信長に譲る。1555年(弘治元年)に信長は「清州城」へ移り、那古野城を信光(信長の叔父)に譲る。その後重臣の林秀貞が入る。清州城に移った信長は1560年(永禄3年)桶狭間の戦いに清州城から出陣し、今川義元に勝利。信長自身は、『那古野城→清州城→小牧山城→岐阜城→安土城』、と拠点を移しつつ天下統一を目指すも、1582年(天正10年)本能寺の変で夢断たれる。同年に那古野城も廃城。
 その後、変わって天下を統一した秀吉も亡くなり、迎えた関ヶ原の戦いに勝利した家康。大阪には豊臣秀頼や豊臣家臣がおり、それをけん制するべく、名古屋城築城の流れがスタート。大坂と江戸を結ぶ東海道の中間点である尾張に、徳川の防衛拠点が必要であったからだ。1607年(慶長12年)尾張一国を与えられていた家康の4男 松平忠吉が28歳で死去し、9男 松平義直※が継いだ1609年(慶長14年)頃に、尾張徳川家の当時の居城だった水害に弱い清須城から新しい城に移るべく、家康は1610年に名古屋城の築城を開始。もちろん、緊張状態にあった大阪方への睨みを効かせるためでもあった。築城には、諸大名の財務を削ぐことも目的に、加藤清正や福島正則などを動員。天守台の石垣は、築城の名手加藤清正の担当。天守閣の大工棟梁は家康側近の中井正清。作事奉行は小堀政一(遠州)。この二人は駿府城の築城も務めたベテランコンビ。大小天守も完成し、大天守には金鯱もつけられ、本丸御殿もでき、1615年(元和元年)に名古屋城完成。
 時代は流れ、その後は御三家筆頭の尾張徳川家の居城として、260年余り栄えた。(以上、ほぼ公式HPより引用)
 ※9男義直はこの時8歳。政務は平岩親吉が担う。平岩親吉は、犬山城にも入城した尾張藩付家老。

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 さて、名古屋城。6時43分東京駅からのぞみで名古屋へ。8時23分到着。名古屋城は名古屋駅から3.7キロ。北東へ北東へと歩く。道中、交番名など「那古野」という文字がよく目につき、今川、織田の時代の名残りを感じることができる。歩くこと40分ほど、9時過ぎ、名古屋城が見えてきた。まず天守台の普請を担当した加藤清正像を拝み、西の丸に入る。大正期に復元された西南隅櫓を拝みつつ、表ニの門をくぐり、本丸、天守閣へ。天守台は高石垣の反りがとても見事で美しい。さすがは名手加藤清正。

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 ちなみに天守閣は耐震工事中で登ることができなかった。天守側面には噂のエレベーターが設置されてある。これは確かに無粋かも。続いて、重要文化財、西北隅櫓へ。西北隅櫓は貴重な三階櫓。現存する貴重な三重櫓の12のうち1つ。熊本城の宇土櫓に次ぐ二番目に大きな三重櫓。西北隅櫓の別名は「清州櫓」。清洲城の小天守や櫓の古材も再利用して作られている。櫓の中に入りその大きさを実感。備中松山城や丸亀城よりも大きいだろう。西北隅櫓の3階は窓枠もなく、風がビュービュー吹き抜け気持ちがいい。水堀と屋根瓦、名古屋市街地の眺めも良かった。本丸横に「清正石」あり。巨大。知っている石垣の中でも一番の大石だった。ちなみにこの部分の担当は実は黒田長政。なのに清正の名前がついている。黒田長政が気の毒。この辺りで、仕事の合流時間が近づく。10時30分、名古屋駅に向け出発。帰りも徒歩で45分程度歩く。朝からかなり歩いた。再建された本丸御殿、コンクリ天守閣内など、今回は見ていない箇所も多い。再訪したい。

 2022年8月再訪。
名古屋城は2回目。前回は出張の際の待ち合わせ時間前の駆け込みだった。今回はゆっくり見ることができる。犬山を11時37分出発、名鉄犬山線特急に乗り、岩倉で乗り換える。 犬山線は名古屋市営地下鉄鶴舞線と相互乗り入れしているようで、12時20分浅間町駅で降りる。この浅間町駅は名古屋城の西の方に位置しており、歩いて10分くらいで加藤清正像に着いた。
 しかし今日も暑い。そして丁度暑い時間。今回は娘も一緒なので無理のないようにゆっくり歩く。ほどなく清正像に到着。 どこかでごはんを、、と思っていたので能楽堂の横にあるレストランできしめんを食べる。ついでにどら焼き生地とメレンゲの餡バターも食べる。店内でしばし涼を取り、いざ暑い外界へ。
 正門から中に入る。大人500円、小中は無料。まずは娘のスタンプを押す。そして東の方へ歩いていくと、西南隅櫓と奥の大天守のおなじみの素敵な光景が現れた。 盆踊りのような音楽が流れており、今日はどうやらお祭りの様子。大手門から中に入る。目の前には復元された新しい本丸御殿が煌びやかに鎮座している。 前回はできたばかりだったのだが入る時間はなく、入るのは今回が初めて。復元とはいえ、中に入る際のルールはとてもうるさい。水も飲んではだめ、ものに触れてはだめと、テントで一頻り注意を受けてから、いざ中へ。 本丸御殿内の新しい木の匂いに気分が良くなる。二条城のような障壁画などが並び、それらは当然レプリカなのだが、きれいでよかった。丁度数日前に二条城の二の丸御殿を見学したものだから、ああ、新しい御殿や障壁画ってこんなにきれいなものなのだと感心。 150億円10年をかけて完成させた本丸御殿は見る価値あり、よい体験だった。
 その後大天守の方へ。大天守は相変わらずの巨大さ。その巨大さは北側に回るとより実感。つい先ほどまでは、黒田長政の鏡石が普請上手だからと清正石と名付けられてしまった黒田を気の毒に思っていたのだが、前言撤回。 やはりあの石は清正石でよい。清正はそれだけの功績者だ、と思いを改めた。それくらいに見事な勾配の高石垣。圧巻とはこのことだとつくづく思う。
 さて、現存三重櫓、西北隅櫓は見せておかないと。こちらのエリアにはほぼ人はおらず、だれも彼の価値を知らず。確か宇土櫓に次ぐ2番目に大きい櫓で、丸亀城や宇和島城よりも大きいのだ。 いつでも代用として天守にとって替われる実力者なのだ。もう少し彼に脚光を浴びせてあげたい。中には入れないが一頻り外から写真を撮る。時間は15時頃。今日は1人ではないし、無理はしないと決めていた。 早めに名古屋駅に向かうことに。能楽堂の近くから循環バスめーぐるが20分程度間隔で出ており、それに乗り駅へ。一つ早い新幹線に変更し、16時23分名古屋発、18時3分東京着。

 このお盆の4日間で、平等院鳳凰堂、伏見稲荷、二条城、京都市動物園、清水寺、方広寺、三十三間堂、近江八幡、八幡山城、彦根城、そして犬山城と名古屋城、世界遺産や国宝、重文を巡った。とてもよかった。特に最終日は泊まりがけでもう2城娘と見にいくことができて、共にいい時間を共有できたし楽しかった。

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today's ramen

『稲生(いのう)』 (名古屋駅ビル) ひつまぶし 3010円



impressions

 名古屋と言えば、味噌カツ、ひつまぶし。当然ラーメンではない。ということで、名古屋名物、うなぎのひつまぶしを戴く。1杯目は混ぜてそのまま食し鰻のうまさを堪能。カリッとした焦げ目と鰻の油がマッチしてとてもとてもうまい。2杯目、ネギとワサビの薬味を散らす。鰻の焦げ目とワサビがまたなんとも合う。3杯目は出汁をかけてお茶漬け風に。もう何杯でもいける。名古屋駅で合流した仕事関係の方のおごり。ありがとうございました。



ひつまぶし
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