Photo
2006年
2024年
Data
- 築城年: 13世紀末頃
- 廃城年: 1665年(寛文5年)
- 城郭タイプ: 山城
- 天守タイプ: −
- 天守の縄張り: −
- 築城主: 不明 ※湧川王子(英祖王の次男)?
- 主な城主: 湧川王子 後北山王 第一尚氏(琉球王国)
- 関係する武将:
- 主な遺構: 城壁 石垣
- 主な石垣のタイプ: 野面積み 切石積み
Map
Record
攻城日時
2024年3月30日
攻城手段
ガリバーレンタカー壷川店
攻城記録
曲線美の石垣で有名な、沖縄県の100名城、今帰仁城。沖縄本島北部の標高100mの丘上にある。薩摩郡に攻められは廃城となったが、石垣や城壁は今なおしっかりと残っている。城郭を幾重にも取り囲むカーブの美しい城壁は「百曲り」(ももまがり)と呼ばれている。
▼read more!
14世紀の中国の史書に琉球国山北王「 怕尼芝(はにじ)」「 a(みん)」「 攀安知(はんあんち)」の三王が登場する。この頃の沖縄本島は北部地域を北山、中部地域を中山、南部地域を南山がそれぞれ支配した「三山鼎立の時代」だった。北山王は今帰仁城を拠点に沖縄島の北部を中心に支配下とし、中国と貿易をしていた。
しかし1416年(1422年説もある)に中山の尚巴志によって滅ぼされ、北山としての歴史の幕を閉じることになった。
北山の敗北後、中山は北部地域の管理のために監守を今帰仁グスクに設置し、1422年以後監守の居城としてグスクを利用した。
しかし1609年に薩摩軍による琉球侵攻にあい、城は炎上したとされている。監守が住まなくなって以後は拝所とし、精神的拠り所として広く県内から参拝者が訪れている。
※以上ホームページより引用
さて、今帰仁城。何せ13年前のため細部の記憶が薄い。緩やかにカーブしながらウネウネと延びた、広大な石造りの城壁。そこはかとなく漂う、厳かで神聖な空気。是非再訪したい。
▼read more!
2024年再訪
沖縄3日目。本日2城目。沖縄では5城目のラストとなる。14時30分に今帰仁グスク交流センターに到着。93城目のスタンプを無事押すことができた。美ら海からは10分くらいだったかな、沖縄のメッカからとても近い。だからなのか観光客も他のグスクと比べて多かった。
ここは2006年以来。実に18年ぶり。当時の記憶は、蛇のような曲線美の城壁と、タンクトップで記念写真に収まる自分のスナップ。ほぼこれくらいしか持ち合わせていない。当時は城や歴史に今ほど興味を持っていなかった。るるぶに載っているからきてみた、という感じだったのだと思う。足元が少し悪かったという断片的な記憶のみ残っている。案の定、初めて訪れたような感覚。とりあえず18年前にスナップを撮った場所で同じように記念撮影をしてみた。今帰仁城の石碑から中へ進むと石門がある。石門は護佐丸の中城や座喜味城のようにアーチではなく、平石の天井であるところが大きな違い。石門の両サイドには守衛室のようなボックスが設置されていることも異なる。
石門をくぐり、アメリカンチェリーのような実のなる木々の道を進み、低く連続した石段(1960年に整備)を登ったいくと、広く開ける縄張りにでる。ここに来てもはっきり記憶は戻らないが、龍のような城壁を見てなんとなく思い出すところもある。
他のグスクとは少し異なり、発達段階としては古い時代の城壁のように感じる。石垣も布積みか野面積みかというところ。他と比べて自分の中ではやや見劣りのする気がしないでもないのだが、廓の一番奥、階段を降りて見上げる城壁はやはり圧巻だった。
15時15分攻城終了。沖縄5城のうち首里城を除く4つは曲線美の城壁で似ているのだが、ここだけ北山の城という先入観もあり、この今帰仁城は他とちょっと異なる印象を受けた。
この後、古宇利島へ行き、ティーヌ浜を見て、そして16時半過ぎころかな、那覇への帰路に。帰りはトンネルを通る最短でルートがナビで選ばれてしまい難儀したが、19時半頃に何とか帰り着くことができた。教訓として那覇出発で北へ観光し帰ってくるのは、結構大変。北をゆっくり観光するなら恩納村とか名護とかもっと北に泊まるべし。
4日目最終日はゆっくり起きて、国際通りでお土産を物色したり、壺屋やちむん通りで焼き物を眺めたりのんびり。しかしこの日は結構な雷雨。日程的には雨でも問題のない日なので、総じて天気にはまあまあ恵まれた。
3泊4日。よい旅行だった。次回があるなら真っ青な青空と青い海を見たいな。
飛行機の出発が遅れ17時25分発、羽田には20時前に着。ちゃんと寝ていたのでそう疲れてはいないが、おつかれおれ。
today's ramen
impressions