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Data
- 築城年: ?(室町時代中期)
- 廃城年: 1872年(明治5年)頃
- 城郭タイプ: 平山城(梯郭式)
- 天守タイプ: 不明
- 天守の縄張り:
- 築城主: 二本松満泰
- 主な城主: 二本松氏 伊達氏 蒲生氏 上杉氏 加藤氏 丹羽氏
- 関係する武将:
- 主な遺構: 箕輪門(復元) 天守台 石垣 堀切
- 主な石垣のタイプ:
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Record
攻城日時
攻城手段
攻城記録
福島県に100名城は2つ。そのうちの一つ、二本松少年隊で有名な二本松城。
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この城、歴史のビックネームが意外と関係している。1586年(天正14年)伊達VS畠山の戦いで伊達政宗が入城。片倉小十郎景綱を配置。1590年(天正18年)豊臣秀吉が蒲生氏郷に会津領を与え、蒲生郷成が城代。同年、検地奉行の石田三成や浅野長政が滞在。1591年(天正19年)豊臣秀次が入城。同年徳川家康も入城…等。なんと家康も入った城であった。
戊辰戦争、時代は幕末。二本松の戦いにおいて、二本松藩の兵力は仙台などの応援兵を合わせてもわずか1000人。それに対して薩摩、長州、土佐などの連合である西軍は約7000人。1868年(慶応4年 明治元年)7月29日に二本松城は落城。
戊辰戦争について。鳥羽・伏見の戦い(1868年1月3日)から函館五稜郭の戦い(翌年5月18日)で榎本武揚が降伏するまでの、討幕派VS旧幕府軍の戦争。東北では、5月3日に仙台、米沢、二本松など25藩が「奥羽列藩同盟」、5月6日に越後の6藩が加わり「奥羽越列藩同盟」に発展。討幕派と激しい戦いを繰り広げたが、7月29日に二本松城は落城。その後に会津戦争となり9月22日に降伏。翌9月23日に会津若松城が開城。
さて、二本松城。今回は帰省中のため、車で城攻め。鶴ヶ城の後にし、磐越道から東北道に入り、二本松ICで初めて降りる。ICから車で5分ほど。すぐだ。アップが攻城から半年くらい経つため、細部の記憶がはっきりしない。城址公園としてしっかり整備されていた。しっかり整備しすぎなのか、史実にはない復元櫓もあるほど。上り坂を登り、階段を登り、とにかく登った記憶。
▼read more!特別に覚えているものは、城前の二本松少年隊の群像と、天守跡から臨む気持ちのいい眺め。その2点。二本松少年隊といい会津の白虎隊といい年齢は小中学生。二本松少年隊は14人が戦死。胸が痛む。
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