二条城

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name二条城
another name恩賜元離宮二条城
selected100名城 53
location京都府京都市上京区四町目

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二条城

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攻城日時

2022年8月12日

攻城手段

東海道新幹線のぞみ

攻城記録

 京都府の100名城、二条城。徳川家の栄枯盛衰と、日本の歴史の大きな転換点の舞台となった城。二条城は1603年(慶長8年)、天皇の住む京都御所の守護と将軍上洛の際の宿泊所とするため、徳川家康が築城した。 現在の正式名称は元離宮二条城。中に入るとまず、来殿者の待合室の役割をした遠侍(とおざむらい)や、将軍が大名や公家などと対面した大広間(二の間・三の間)といった政務の空間が広がり、 色彩豊かな欄間彫刻や天井画など贅を尽くした内装に目を奪われる。奥に進むと、将軍の居間寝室だった白書院というプライベート空間がある。他の棟とは異なり、水墨画を中心とした落ち着いた色調が特徴。※パンフより引用

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 将軍不在時の二条城は、江戸から派遣された武士、二条在番によって守られていた。 3代将軍家光の時代、後水尾天皇行幸のために城内は大規模な改修が行われ、二の丸御殿にも狩野探幽の障壁画などが数多く加えられた。 壮麗な二条城に天皇を迎えることで、江戸幕府の支配が安定したものであることを世に知らしめた。 1867年(慶応3年)に、15代将軍慶喜が二の丸御殿の大広間で「大政奉還」の意思を表明したことは有名。 二の丸御殿、二の丸庭園、唐門など、約400年の時を経た今も絢爛たる桃山文化の遺構を見ることができる。 1994年(平成6年)、ユネスコ世界遺産に登録された。
 歴史
【後水尾天皇の行幸】
「行幸」とは天皇の外出のこと。二条城においては、1626年(寛永3年)9月に上洛中の徳川秀忠と家光の招きに応じ、後水尾天皇が行幸した。 2代将軍秀忠の娘であり天皇の中宮となった和子らと 5日間滞在し、能や和歌などの会が賑々しく催された。 行幸を迎えるにあたって、その2年前から城を現在の広さまで拡張し、天守閣や行幸御殿、本丸御殿なども造営された。 また、狩野派の見事な障壁画も行幸に際して新たに描かれたと言われている。 その後、行幸御殿等は移築され、天守閣、本丸御殿等は焼失したが、二の丸御殿は今も往時の風情を伝えている。
【大政奉還】
1867年(慶応3年)10月14日、江戸幕府15代将軍徳川慶喜が政権を朝廷に返上することを申し出る。翌15日に朝廷が許可し、江戸幕府の幕は降ろされた。 徳川家康が朝廷から征夷大将軍を宣下されて以来、政治の大権を天皇から徳川家が預かる形で、日本の統治者として君臨してきたが、 幕末、薩摩藩と長州藩が同盟を結んで討幕運動を始め、土佐藩からは慶喜に大政奉還の意見書が提出された。 それを受けて慶喜は、10月13日、二条城二の丸御殿大広間に、在京していた40藩の重臣を集めて意見を聞き、翌々日、大政奉還が成立した。 大政奉還で一旦は討幕の動きは弱まったが、やがて江戸無血開城へと至る。

【二の丸御殿】
二の丸御殿は全6棟の建物からなり、江戸初期に完成した住宅様式である書院造の代表例として日本建築史上重要な遺構。 江戸城、大坂城、名古屋城の御殿が失われた今日、国内の城郭に残る唯一の御殿群として国宝に指定された。 内部は、日本絵画史上最大の画派である狩野派による障壁画と、多彩な欄間彫刻や飾金具によって装飾されており、将軍の御殿にふさわしい豪華絢爛な空間となっている。 廊下は、人が歩くと鳥の鳴き声のような音がなることから、「鶯(うぐいす)張り」と呼ばれている。音は、目かすがいと釘のこすれによって生じる。 障壁画について。二の丸御殿には、寛永期の障壁画を含む約3600面の障壁画が残されている。 1982年(昭和57年)には、そのうち1016面が国の重要文化財に指定された。 寛永期の障壁画は、1626年(寛永3年)の後水尾天皇の行幸のために大改築された際、幕府御用絵師であった狩野派の若き天才絵師、棟梁の狩野探幽が一門の総力を挙げて制作したもの。 ※大広間四の間「松鷹図」が最も有名。桃山時代の様式を取り入れた巨大な松と勇壮な鷹が描かれている。 現在の殿内では作品保護のためレプリカがはめられているが「二条城障壁画 展示収蔵館」で原画を見ることができる。

※二条城障壁画展示収蔵館 2022年7月〜9月
元離宮二条城の2022年度の原画公開第2期として「松鷹 〜将軍の武勇を示す障壁画〜」が展示収蔵館で丁度開催されていた。 二条城二の丸御殿の中で最も知名度の高い障壁画、〈大広間〉四の間の《松鷹図》が公開。 《松鷹図》は、障壁を埋めつくすほどの巨大な松に、現実よりも大きいサイズで描かれた鷹2羽と鷲1羽が添えられている。 これらの猛禽類は、将軍の武勇を示す役割を担っていると考えられており、その力強さと豪華さは見るものを圧倒。 天井に届く2本の松を描いた北側画面は、修理後初公開。 今回は〈大広間〉の西廊下にはめられていた杉戸絵《松鷲図》もあわせて鑑賞することができる。

【本丸御殿】
明治時代に京都御所にあった宮家の御殿を移築した4棟。重要文化財。 阪神淡路大震災により生じた歪みを修正し耐震補強すべく、2017年から現在まで保存修理工事中。2023年までを予定。 3代将軍徳川家光が1626年(寛永3年)に後水尾天皇行幸を迎えるため、城の区域を西側に拡げ、新たに築いた。 その際、本丸内に御殿が建てられたが、1788年(天明8年)の大火で焼失。 幕末には15代将軍徳川慶喜が御殿を建てたが、1881年(明治14年)頃に取り壊された。 現存する本丸御殿は、桂宮家が京都御所の北(今出川御門内)に建てた御殿の主要部を、1894年(明治27年)に明治天皇の意向により移築したもの。 当時は、二条城が天皇家の別荘である離宮として利用されていたため。 ちなみに元離宮二条城の元離宮は、二条城が天皇家の元別荘だったという意味。 江戸時代の宮家の住宅建築は、全国的にほとんど残っていない。本丸御殿は、当時の宮家の生活空間を知ることができる貴重な例として国の重要文化財に指定されている。 また移築後は、皇太子時代の大正天皇が約10回滞在する等、離宮として重要な役割を果たした。 「玄関」「御書院」「御常御殿」「台所及び雁の間」の4棟で構成されている。 障壁画について。本丸御殿には、四季折々の植物や風景、風俗をテーマとした障壁画がある。 なかでも狩野永岳が描いた「松鶴図」は圧巻で、鶴の羽を一本ずつ捉えた精緻な描写と鮮やかな色彩が、金砂子が散りばめられた背景に浮かび上がり、格式高い空間を飾るに相応しい逸品。 絵師の多くは京都御所の障壁画制作にも参加した精鋭たち。 本丸御殿の障壁画は幕末の宮廷文化を今に伝える、貴重な作品群。

【二の丸庭園】
作庭の年代については記録や作風から推測して、1602年〜1603年頃(慶長7年〜8年 家康時代)二条城が造営されたときに、その建築に調和させて作られたものだが、 1626年(寛永3年 家光時代)の後水尾天皇行幸のために一部改修を加えられたと考えられている。 書院造庭園である二の丸庭園は神仙蓬莱の世界を表した庭園と言われている。後水尾天皇行幸当時の姿は、新たに増築された行幸御殿、中宮御殿、長局等に取り囲まれた中庭的な庭園としてつくられ、池の中に御亭を建て、池の中央3つの島、4つの橋を併せ持ち、二の丸御殿大広間上段の間(将軍の座)、二の丸御殿黒書院上段の間(将軍の座)、行幸御殿上段の間(天皇の座)・御亭の主に三方向から鑑賞できるように設計されていた。 特に、大広間からは庭園ごしに天守閣が一部望めたものと思われる。その後行幸の翌1627年(寛永4年)から四半世紀にかけ、二の丸庭園を取り囲んでいた行幸諸施設は移築・撤去され、小堀遠州の作庭意図も薄れていった。 3代将軍家光の上洛以降、14代将軍家茂が上洛するまでの、229年間将軍不在のまま幕末を迎える。その間事由は定かではありませんが、吉宗の時代に庭園の改修が行なわれた。 時代は下り、15代将軍慶喜の上洛時には、樹木はほとんどなく、池は枯渇して枯山水風の庭園景観を呈し、荒廃していた。 大政奉還後、二条城は転々と所管が変わり、宮内省に所管されてからは5回以上改修が行なわれ、離宮的・迎賓館的な城として利用されていた。 特に離宮時代に行われた植栽工事は、幕末の庭園景が変貌する程の大規模な改修工事で、今日に至る基本的な景観が完成したと考えられる。 京都市に下賜されてからの二の丸庭園は、1939年(昭和14年)名勝に指定、1953年(昭和28年)に 国の特別名勝の指定を受け、文化財的資産と観光要素の一つとして維持され現在に至る。

【本丸庭園】
本丸造営当初の庭園は、史料が不足している為、どのようなものであったか分かっておりませんが、二の丸庭園にひけをとらない庭園が存在していたと考えられている。 しかし、1788年(天明8年)の大火の飛び火によって本丸御殿、隅櫓、多聞櫓などが焼失。 庭園も延焼して空地となっていたと思われる。 幕末には、本丸内に徳川慶喜の居室が建てられ、庭園は茶庭風に作られた。 居室は老朽化のため1881年(明治14年)に撤去、庭園も取り壊されて空地となったが、1893年(明治26年)から1894年(明治27年)にかけて京都御苑内にあった旧桂宮邸の一部が移築されて、枯山水庭園が作庭された。 現在の本丸庭園は1895年(明治28年)5月23日、明治天皇が本丸に行幸された折、既存の枯山水風庭園の改造を命じ、約7ヵ月半の歳月をかけた末、1896年(明治29年)に完成した芝庭風築山式庭園。 明治の中頃になると洋風の庭園が多く作庭されていることなどから、本丸庭園も少なからずその影響を受けていると考えられる。 庭園は東南隅に築山(月見台)を配し、芝生を敷き詰め、曲線的な園路を設け、石段(雁木 <がんき>)沿いにはアラカシ、ベニカナメなどを植樹し、所々に燈籠や庭石などが据えられている。

【清流園】
創建時(家康の時代)の二条城北部清流園地区は洛中洛外図屏風などから城内通路と天守閣の一部が存在していたと推定される。 しかし、1624年〜1626年(寛永元年〜同3年 家光の時代)にかけての二条城大改修の折、天守閣は淀城に移築されて空地となった。 寛永年中以降、在番衆(管理する武士)の住まいが建造され、幕末まで建造物群があったことが確認できる(但し、一時天明の大火で焼失)。 彼らの住まいは明治前期に撤去されたと考えられ、緑地に整備されたと思われる。 1915年(大正4年)には大正天皇即位式饗宴の儀の会場として利用され、饗宴施設等が増築された。 翌1916年(大正5年)より城内の復旧工事が行われ、饗宴施設の一部は岡崎桜の馬場へ移築撤去され、その跡地を有名な造園家小川治兵衛氏によって疎林式庭園に復旧された。 1950年(昭和25年)進駐軍の意向によりテニスコートに転用されたが、1965年(昭和40年)に清流園が造営され、現在に至る。 この庭園は河原町二条にあった旧角倉了以の屋敷の一部、庭石、庭木等を無償で譲りうけ、更に全国から集めた銘石、篤志家より寄贈を受けたものなどを用い、同年に完成した。 庭園は当時の高山義三市長によって「清流園」と命名され、東半分が芝生を敷き詰めた洋風庭園、西半分は二棟の建物を含めた池泉回遊式庭園(和風庭園)からなる和洋折衷庭園で、観賞するだけでなく実用的な庭となっている。


【東大手門】重要文化財
【東南隅櫓】重要文化財
【唐門】※二の丸御殿の正門
【二の丸御殿】国宝
【二の丸庭園】特別名勝
【本丸御殿、本丸庭園】重要文化財
【天守跡】かつてあった五層六階の天守閣が1750(寛延3)年に落雷で焼失。以来再建されず、現在は天守台の石垣のみが残されている。本丸庭園から階段を登り、天守跡の上の天守台から京都市内を一望できる。
【清流園】約300年の歴史をもつ、京都の豪商・角倉了以の屋敷跡から茶室「和楽庵」「香雲亭」が移築されました。※香雲亭は通常非公開
【二条城障壁画 展示収蔵館】
※パンフより引用

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 さて、二条城。訪問は3回目か。本格的に100名城巡りをしてからは初めてなので、今回初スタンプを押すことができる。 14時08分京都駅発、JR嵯峨野線快速に乗り14時12分二条駅着。JR二条駅は二条城の西南のちょい西。距離は近いのだが、二条城の入口が東大手門のため、炎暑の中西から東へ水堀と石垣沿いをずっと歩く。

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 そもそも今回は城攻めがメインではない旅行。二条城の前に京都の名所を回っている。 本日は9時50分に宇治に着き、平等院鳳凰堂を見学、12時50分頃に伏見稲荷の千本鳥居を見て(時間がなく1/3くらいで引き返したのだが)、そして今に至る。 台風が迫ってるがまだ天気は良く京都はとても蒸し暑い。風も控えめで各所に設置されているミストがとてもありがたい酷暑の一日。しかし平等院も伏見稲荷もとてもよかった。いずれも初めて。
 さて二条城。先ほども書いたが訪問は3回目。本格的に100名城巡りをしてからは初めてなので、今回初スタンプを押す。 京都駅から二条駅へ。JR二条駅は二条城の西南のちょい西。距離は近いのだが、二条城の入口が東大手門のため、炎暑の中西から東へ水堀と石垣沿いをずっと歩く。 西は後水尾天皇行幸の際に家光が拡充したもの。石垣も西は新しく東は古いのだと思っていたが、家康と家光の時代の差はそうなく、石垣の新旧はよくわからなかった。 東側に周り北を向くと東大手門が見えて記憶にある光景が広がっていた。ちなみにこの位置に地下鉄の二条城前駅があり、電車ならこっちのほうが近くいいのかも。チケットを買う。 さすが国宝の世界遺産、大人1300円、中高生400円。東大手門をくぐり入城。暑い。ペットボトルが空になりやや脱水気味。まずは休憩所へ。この休憩所にスタンプも設置されていて無事押すことができた。 水分を補給し一服し一息ついてからスタート。重要文化財の東南角櫓、唐門をくぐり、まずは二の丸御殿へ。この時点で15時過ぎたくらいだったか。久しぶりの二の丸御殿。靴を脱ぎ中へ。 スリッパはない。遠侍、大広間、黒書院、白書院と奥へ進む。鶯張りがひょこひょこ鳴く音と、匂いや天井絵から遠い記憶が朧げに蘇る。当時は障壁画などあまり気に留めず、何となく見て歩いていたと思う。 今回は松と鷹と鷲と鶴、虎をしっかり見ようとやってきた。二の丸御殿の3000点の障壁画は、天井以外はほぼ模写だそうな。本物は全て障壁画収蔵館に保管されている。 唯一オリジナルの天井もだいぶ傷んできている様子。大広間にはお馴染みの将軍様と大名たちが。ここで大政奉還が伝えられた。歴史の転換点の部屋を前に、皆足を止める。 Uターンする形で順路は大広間に戻る。部屋には松鷹図の模写がある。立派。収蔵館のオリジナルはどんなものかと胸が高鳴る。
 15時50分二の丸御殿を出て、収蔵館へ。収蔵館は四角形の空間で真ん中に座れるスペースがある、とても涼しい。収蔵されている障壁画は1000点くらいあるらしいが受付のおばさんの話では全く表に出ないものもあるそうな。 松鷹図は最も有名だが、それでも3年ぶりの展示とのこと。貴重。四方の松鷹図をじっくり拝む。多少傷んではいるが、やはり本物は雰囲気があり。狩野探幽作と言われていたが、近年は狩野山楽の作であるとされた。 探幽と三楽はいずれも1600年初期生まれ、三楽が1635没と短命だったか。いずれにしても若き天才絵師。幕府お抱えなのだから超エリートだったのだろう。
 その後、二の丸庭園に出て小堀遠州の作庭を眺めて、本丸御殿(改修工事中でシートが被せてあった)に進み、そして天守台へ。二条城の天守台は初めてかも。多少は高いため、今も京都市内を眺めることができる。 夕暮れの二条城エリアを見下ろし、ここで終了。17時までには城内を出なければならない。警備員さん方に時間ですよーと追い立てられながら、東大手門から出る。
 二条城前から地下鉄にのり山科へ。山科でJR湖西線に乗りおごと温泉へ。 二条城はさすがは国宝、さすがは世界遺産。しっかりお金をとってしっかり維持し、多くの警備員を雇いがっちり守っているといった印象。現存する貴重な遺構の数々をどうか長く守ってもらいたい。

平等院鳳凰堂など京都番外編はこちら

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