大阪城

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name大阪城
another name大坂城 錦城(キンジョウ) 金城
selected100名城 54
location大阪府大阪市中央区大阪城

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攻城日時

2022年3月28日

攻城手段

東海道新幹線のぞみ JR大阪環状線

攻城記録

 大阪府の100名城、大阪城。言わずと知れた豊臣家の城。上町台地の北端という天然の要害で、石山本願寺の顕如VS織田信長の争いが起こるくらいに防御に魅力的な立地で、大坂の陣でもその堅固さで豊臣方を最後まで守った。

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 大坂城が立地するのは、大阪湾に面した上町台地の北端で、この台地は北、東西淀川、旧大和が国指定特別史跡などの河川や湿地に囲まれた天然の要害。 また商工業や政治文化の中心である奈良や京都に近く、河川や大阪湾を利用した海運による貿易のための港を開くことができるという魅力的な立地でもある。 大坂城築城以前はその有利な立地条件のためか、古代には難波宮、中世には石山本願寺と寺内町が造営されて繁栄した。この魅力的な地に目をつけたのが織田信長。 10年以上もの攻防の果てに、 1580年(天正8年)、石山本願寺は明け渡しを受け入れる。天下人を目指す信長は築城を開始したが、1582年(天正10年)本能寺の変で野望は潰えた。 信長の後継として躍り出た豊臣秀吉は、1583年(天正11年)築城を開始。数期の工期を経て、秀吉死後の1599年(慶長4年)頃に完成した。 秀吉死後に秀頼が城主となるが、関ヶ原の戦い、冬の陣、夏の陣を経て大坂城は落城。夏の陣の後、大坂の地は松平忠明に下されたが、1619年(元和5年)大坂は幕府の直轄領となった。 2代将軍秀忠の命で、翌年正月から大坂城の再築工事が始まり、3代家光のときに完成。徳川幕府は豊臣の時代の終わりを示すために、大坂城に残る豊臣の痕跡を完全につぶした。 現在見られる遺構はほとんど徳川時代のもの。
 大坂城は本丸を二の丸 三の丸が囲む輪郭式の巨大な平城で、築城技術の完成期に造営された。 現在の天守は外観復元の5層、内部はコンクリート造りの8階。4層目までの壁は白漆仕上げで、最上層の壁には金箔で虎の絵が描かれ、豊臣時代の天守を再現している。 屋根は銅瓦葺き、軒先の丸瓦、平瓦は金箔。 金箔 青味を帯びた緑色の屋根と、軒先瓦の金箔の対比が典雅で美しい。 高層ビルがなく、沖の埋め立てが進んでいなかった豊臣、徳川時代当時は、大城湾に入ってきた船や淀川を行き来する船からは、圧倒的な迫力を持って天守が目に飛び込んできたことだろう。
 石垣を積み上げる技術は最高に達し、堀と城壁の石垣は規模が大きい。石材は京都の加茂、兵庫県の六甲、瀬戸内海の島々から運ばれた。瀬戸内の石は良質の花崗岩で、多くの石が海路で運ばれた。 本丸内堀、二の丸の南面と西面の石垣は、水面から約20mもの高さを誇り、屏風のように折れ曲る屏風折(びょうぶおり)という横矢掛けや、向かい合わせに突出部を設けた合横矢など、防御の技巧が凝らされた石垣が続く。 打込接で積み上げ、角は強度を確保した算木積み。 また、桜門枡形の蛸石や、大手口枡形の巨石など、巨石がふんだんに使われているのも大坂城の特徴。当時の石垣加工技術が高いレベルにあったことを実感するのも大坂城めぐりの醍醐味。
西東社「日本の城1000城」より引用

 大阪城には現在重要文化財が10か所あり、ほとんどが徳川幕府により大坂城再築工事の時のもの。その中でも乾櫓と千貫櫓が初期に建造された大阪城最古の建造物。
千貫櫓(せんがんやぐら)
 大手門のそのすぐ左横に見える多聞櫓と千貫櫓。千貫櫓は江戸時代から現存している重要文化財の一つ。乾櫓と並ぶ最古の建造物。 多聞櫓と千貫櫓の間にちらっと大阪城天守閣が見える。 徳川幕府により大阪城再建工事が開始された1620年(元和6年)に創建。戦後の解体修理の時に、墨書で「元和六年九月十三日御柱立つ」と記された部材が見つかった。大阪城最古の建造物で、工事責任者は茶人で有名な小堀遠州。 埋め立てられ具体的な場所は不明だが豊臣秀吉の大坂城にも千貫櫓はあり、またそれ以前の織田信長が大坂を領していた頃にも千貫櫓はあった。織田信長がこの地にあった大坂本願寺(石山本願寺)を攻めた時に、一つの隅櫓からの横矢に悩まされ「千貫文の銭を出しても奪い取りたい櫓だ」と兵士たちの間で噂されたという逸話が残ってる。

乾櫓
 江戸時代から現存している重要文化財の一つ。大阪城最古の建造物で、工事責任者は茶人で有名な小堀遠州。 乾(戌亥)は西北の意味。西ノ丸の西北に位置することから乾櫓という名前になっている。 大手口から京橋口までの広い範囲を見渡す重要な地点にあり、堀を隔てた城の外側の南・西・北のどの角度からも望めたことから「三方正門の櫓」とも呼ばれていた。 戦後に解体修理を行い、「元和六年申ノ九月吉日 ふかくさ 三十郎」と書かれた瓦が見つかっている。このことから創建が1620年(元和6年)の徳川幕府時代だとされている。
金明水井戸屋形
 徳川大坂城が落雷にて焼失する中、この井戸だけは焼失することなく残った。徳川幕府が大坂城再築に伴い、1624年(寛永元年)に新たに彫られた井戸であり、屋形(屋根)は1626年(寛永3年)に創建された当時のもの。

大手門
 幕末の火災や第2次世界大戦の空襲、そして落雷を潜り抜けて、今でも現存。大手門は、正面左右の親柱の間に屋根を乗せ、親柱のそれぞれ背後に立つ控え柱との間にも屋根を乗せた高麗門形式。1628年(寛永5年)に徳川幕府により大坂城再築工事の時に創建。

多聞櫓
 大手口枡形の石垣の上に建つ櫓で、大門の上をまたぐ渡櫓とその右に直角に折れて接続する続櫓によって構成されている。 徳川幕府の大坂城再築工事により1628年(寛永5年)に創建されたが、1783年(天明3年)の落雷で全焼。1848年(嘉永元年)に再築。

一番櫓
 元々、二ノ丸(現在の豊国神社付近)南側の石垣には、一番櫓から七番櫓まであったが、戊辰戦争(明治維新)と1945年(昭和20年)の空襲により焼失。

六番櫓

焔硝蔵
 重要文化財「焔硝蔵(えんしょうぐら)」 大阪城公園の西の丸庭園内にある。焔硝とは火薬という意味。 西の丸庭園内にあるため、大阪城の10か所の重要文化財の中で唯一有料。徳川幕府が、鉄砲や大砲に使用する焔硝(火薬)を保管した蔵で、現在の焔硝蔵は貞享2年(1685年)に建造。

金蔵
 江戸時代、幕府の金貨銀貨を保管した建物で、幕府直営の金庫として役割を果たした。「かねぐら」「かなぐら」とも読む。 1751年(宝暦元年)この場所の南にあった長屋を切断・改造し、元々北西側にあった金蔵を元金蔵、この金蔵を「新金蔵」と呼んでいた。 長崎貿易の収益金や西日本にある幕府直轄領の年貢金などの公用金が、この金蔵に蓄えられていた。

桜門
 大阪城の本丸に入る正門。色々な門があるが、江戸時代はこの門をメインとして出入りしていた。 1626年(寛永3年)徳川幕府の大坂城再築工事で創建されたが、1868年(慶応4年 明治元年)に陸軍により再建。

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 さて、大阪城。大阪城は3回目。前回は2016年12月の冬、友人たちとの恒例の忘年会以来5,6年ぶりである。 14時過ぎに環状線の大阪城公園駅で降りる。ここは大阪城公園の東端。大阪城ホールがすぐに見えて、野球場なのだろうか、 西に向かって砂の広場を歩き出すとすぐに進行方向に外堀が見え、そして天守閣の頂上部を遠くに拝むことができる。 外堀に出ると桜が咲き始めている。外堀の深い青緑と石垣の茶の入り混じった灰色、そして淡いピンクの調和が美しい。

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 家康に埋め立てられたこの外堀沿いに一旦南下して、一番櫓を拝む。大阪城には10の重要文化財がある。その一つ。今回はそれらに注目して回ろうと考えていた。 さて、さらに歩を進め、内堀へ。豊国神社を左に流し見つつ東に進むと右に桜門が出てくる。ここも現存の重要文化財。桜門は深い空堀に守られ、その奥は桝形になっている。 まずは大手門から入り直したいため、桜門を一旦通り過ぎて西の大手門の方へ。近づくとまず大手門多聞櫓が左手に見える。桜と櫓の汚れ具合いの色の調和がまたよい。
 大手門の方へさらに進み、枡形虎口を抜け大手門を一度出る。そこから仕切り直し。振り返り、上りスロープを引き返す形でスタート。 左には現存の千貫櫓と多聞櫓、そしてその間に天守の頭頂部が見える。この二つも重要文化財。
 いざ登城。桝形エリアの石垣はとても立派。それにしても一つ一つの石がでかい。大阪城で一番大きいと言えば蛸石が有名だが、その他の石も当たり前のように巨大。 他の城ならとうに鏡石の地位につくであろう巨石群が、無造作かつ惜しみなく贅沢に整然と積み重ねられている。
 桝形を抜け、大手門多聞櫓をくぐり、内廓へ。左手に空堀の内堀を見やりつつ、東に進み桜門に再び到着。桜門は江戸期にも正式な登城口だったそうな。 桜門を通り突き当たりに蛸石がある。巨石だらけの大阪城でもこれは超巨大。日本一大きな石垣はこの蛸石のようだ。高さは5.5m、幅11.7m、重さ108t。雨が降ると表にタコ模様ができることから名付けられたそうだが、現在はその現象は見られないそうな。
 桜門を抜け桝形を抜けると大阪城の全体像が眼前に。ここは上町台地の南端。北へ、天守閣に近づく。春休み中だからか人はそこそこ多く、月曜にもかかわらず大道芸の催しなどもあり。 豊臣大阪城の石垣が拝めるはずの井戸は、今日もぱったり蓋を閉じたまま。看板もない。ゆくゆくは展示する方向で是非考えてくれればと願う。
 さて一息つき、いざ天守内へ。天守の入場ゲートは金蔵の方に列が長く折れ曲がり、そしてUターンの先にプレハブがある。蔓延防止措置が終了したとは言えまだ感染者数の高止まりが続く。 プレハブで検温され消毒をし住所氏名を書いて初めて入場券を購入する窓口に進むことができる。 外の石階段を登ると、踊り場的な位置に金明水井戸屋形がある。うっかり通り過ぎそうだがこれも重要文化財。そして、天守閣に入る。
 まずは入口左にあるサービスカウンターで100名城スタンプを押す。大阪城はこれで3回目か。ようやく証を押すことができた。ひと安心。何回か来ているため中の展示物にはさほど興味はない。 最上階へのEVには列を成していたため、階段を登ることに。2階、3階、4階、5階、そして6階。さらに上もあったか定かではないが最上階の廻縁に出るまでは、ほぼ流し見て進んだ。 大阪の陣の絵を拡大して解説している映像にあった方々の体で逃げる大阪方の家臣とその家族の姿、真田大助の若くかわいらしい顔の二つが印象的だった。 今起きているウクライナでの戦争とウクライナ国民を思った。
 あべのハルカス、通天閣、眼下の桜混じりの本丸エリア。最上階の廻縁から早春の風景を一頻り楽しみ、階段を降りて天守閣を出る。 その後、西の外堀に出て、城の北西に位置する乾櫓を拝み、攻城は終了。とりあえず取り逃がしていたスタンプを回収することができてよかった。また桜の大阪城を拝むことができたことも嬉しかった。
 その後は、天満橋駅から地下鉄で恵美須町までいき、通天閣へ。新世界の串カツ屋「ぎふや」に入る。牛の串カツや黒豚バラ、茄子や椎茸、チーズウィンナーや大葉ササミなど、 150円から300円程度の串カツを食す。どれもこれも柔らかくて甘くうまい。さすがるるぶの有名店。ごちそうさまでした。 ところでツケダレのビンはテーブル席でも2度づけは厳禁なのだろうか。
 ちなみに新世界は20年ぶりくらいだろうか。当時研修で大阪に住んでいた頃に、大阪の同期生に皆で連れて行ってもらった記憶がある。あの時は夜で、コロナなんてなく、ネオンと立体看板に溢れてもっともっと活気があったように思う。月曜の15時頃という時間的中途半端さもあったのだろうけれども。

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today's ramen

『麺処しろくろ』 (京王線八幡山駅) 煮干し醤油そば 950円



impressions

 今回の大阪では残念ながらラーメンを食べるチャンスはなし。代わりに、麺処しろくろをアップ。何やら大阪城公園の除草にしろちゃんくろちゃんという白黒のヤギ2頭が活躍しているそうな。というわけで、しろくろを取り上げることにする。
 2021年2月13日(土)に来訪。 今年100名店に名を連ねたしろくろ。京王線八幡山駅から歩いてすぐ。土曜の12時半。既に15人ほど列をなしており、そこに加わる。かなりの時間並んだ記憶。店内の席数が多いわけではなく、回転はそうよくはない。 友と始めたての株の話をしながら1時間以上並ぶ。 店前の看板に「伊吹産の白口煮干、平子煮干、鰺煮干をバランスよく合わせた煮干しだけのスープで仕上げたそばです」と書いてあった煮干し醤油そばに惹かれた。 食券機で煮干し醤油そばを購入。
 うまい。出汁の効いたスープ。スープはイクラとキャビアを一緒に口にすると味が変化する。チャーシューは3種類。炙りチャーシューが旨い。唐墨も。 店主がとても丁寧に作っている様子をすぐ目の前で見ることができ、食欲が増す。 これはおいしい。ラーメンというより料理、という感じ。曙橋の鯛ラーメンに似ているがちょっと違う。薄味にして出汁を前面に出したあっさりスープの中にも、引き立つ味覚を感じた。 ソフトな店主が食べ方も丁寧に教えてくれる。
ちなみに、塩にもこだわりあり。塩は淡路島産の自凝雫塩(おのころしずくしお)。ほかに余分なものは一切入れず、原材料は淡路島の海水のみ。 海水を鉄釜で約40時間ほど煮てつくりだすのだそう。手間をかけているぶん、塩辛さだけでなく、甘みや苦みを感じられる塩。



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