大多喜城

Basic information
name大多喜城
another name小田喜城
selected続100名城 122
location千葉県夷隅郡大多喜町大多喜

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Photo

復興天守 復興天守 天守からの遠望

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Data




Map




Record

攻城日時

2020年10月25日

攻城手段

SR400

攻城記録

 千葉県の続100名城、大多喜城。徳川四天王の一人、本多平八郎忠勝が初代城主。徳川家康が関東に移封。現在の千葉県夷隅郡一帯は本多忠勝が10万石で拝領し、大多喜城を近世城郭へと大改修した。

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 大多喜城の歴史としては、1521年(大永元年)真里谷氏(まりやつし)が築いたのが始まり。当時は小田喜城(おだきじょう)と呼ばれていた。
 家康から夷隅郡を与えられた本多忠勝は、関ヶ原の軍功で伊勢桑名藩に移封。同じく関ヶ原に従軍し武功を上げた次男の本多忠朝が上総大多喜5万石を与えられた。 しかし本多忠朝は大坂夏の陣で戦死。その後は忠勝の甥が継ぎ、そして阿部氏、青山氏、稲垣氏と城主は移る。
 1703年(元禄16年)松平正久が城主となり、9代が大多喜城を治め、そして明治維新を迎える。

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 さて、大多喜城。ホテルのベッドもよかったのか疲労も幾分回復。大多喜城もバイクですぐそこ。見通しは明るい。9時半前にホテルを出発。9時50分に町営久保駐車場着。さて歩こう、と思ったら地図を見たら大多喜城が遠い。違う駐車場に着いたことに気づき、改めて城近くの町営駐車場へ向かう。

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 町営駐車場から歩いて10分しないくらいか、坂道を登り、ほどなく石垣が道路脇に出てきて、そして大多喜城が現れた。中が博物館の復興天守だが、外観は立派。 横にも幅のある天守で、続櫓もついている。天守閣に入らず、まず一周して一頻り写真に収める。天守曲輪からは見晴らしのよい景色を望むことができる。眼下には学校があり、大井戸を発見。 その時は発見できなかったが、学校の東側に薬医門もあり見下ろすことができる。
 さて、天守内へ。4階まであるが規模はそう大きくはない。「福を呼ぶ小袖と房総の万祝」という企画展をやっており、小袖やハンテンが多く陳列してある。 万祝はマイワイと読むそうな。漁師の祝い着として作られてきた晴れ着の一種。江戸時代の房総の漁村が発祥だそうだ。万祝はいわばハンテン?岩手などではハンテン。宮城などではバンカン?と呼ばれるとあった。実家ではハンテンと呼んでいたことを思い出す。 母が大学時代に岩手で過ごしたからだろうか、、いや宮城では普通にハンテンと呼ぶのでは?など考えながら各階の展示物やパネルを流し見て、4階へ。
 4階の窓からは近隣の山並みが見える。自然は忠勝の当時のそれと変わらないはず。彼は関ヶ原の武功で伊勢桑名に転封したが、引越し前にこの緑の山並みを見て何を思ったか。 山並みを望みながら、恒例の想像タイム。 そうそう、そういえばホテルで、大多喜町のGoTo記念品だとかで「大多喜城」という辛口日本酒をもらった。そしてその日本酒には「負けしらず」とあった。 57戦無傷の忠勝。桑名への転封もその地の対抗勢力を抑えるための国替えだったはず。無敵の忠勝、きっとかなり頼りにされていただろうな。忠勝あっての家康の天下取りだったのだろうな。
 さて、天守を出て駐車場へ戻る。バイクに乗り10時50分、大多喜を発ち、本日2城目の本佐倉城へ向かう。

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