Photo
Data
- 築城年: 不明(16世紀)
- 廃城年: 1579年 (天正7年)
- 城郭タイプ: 山城(連郭式)
- 天守タイプ:
- 築城主: 不明
- 主な城主: 堀江氏
- 関係する武将: 上杉景虎、堀江宗親(御館の乱)
- 主な遺構: 本丸、二の丸、三の丸、道曲輪、堀、切岸、虎口ほか
- 主な石垣のタイプ:
Map
Record
攻城日時
攻城手段
攻城記録
新潟県の続100名城、鮫ヶ尾城。御館の乱で上杉景虎(北条氏からの養子)が自刃した悲劇の城。
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天正6年(1578) に上杉謙信が死去すると、養子である景勝と景虎による後継者争いである御館の乱が勃発。はじめは優勢だった景虎方だが、次第に追い詰められ、
翌1579年(天正7年) 3月に鮫ヶ尾城へ逃れ、数日の攻防の後に城内で自刃したと伝えられている。 鮫ヶ尾城の築城年代は不明だが、発掘調査では御館の乱当時の遺物のほかに、
16世紀以前とみられる遺物も検出されており、鮫ヶ尾城の原型となる城館がそれ以前からこの地に存在していた可能性が指摘されている。
南葉山から東に伸びる支尾根に置かれた主郭部を中心に、南側にのびる尾根筋を正面として自然地形を残さないように大小の曲輪や切岸を連続的に造作している。
尾根筋を断ち切る堀切は長く、全長100mを超えるものも見られる。
見どころ。曲輪配置や大堀切、山麓から山頂に至る当時の城道など、16世紀後半の上杉氏領国における山城遺構の特徴を示す。北陸新幹線を見下ろす平野部への眺望が楽しめる。(日本の1000城本より引用)
斐太神社(ひだじんじゃ)
猿ヶ城の北東麓にあり、上杉氏が城の鬼門として崇敬したという神社。
さて、鮫ヶ尾城。9時30分出発。ホテルサットイン新井から4km10分ととても近い。駐車場にバイクをとめ、まず斐太神社へ。
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斐太神社はなかなか立派。横には男性器などを祀った雁田神社があり、ちょっと見学。そして案内所へ向かう。斐太歴史の里に到着。どうやら縄文か弥生期の史跡公園のよう。むしろそちらがメインなのかも。総合案内所でスタンプを押す。気温が上がり、バイク用の股引とズボンの重ね履きはさすがに暑く、ズボンの方を脱ぎ股引になる。
案内所のおばちゃんに簡単に説明を受けてから出発。クマ出没注意の看板があり、熊鈴をつけた登山者らしき人もいてちょっとこわい。クマとサメは苦手。公園の一角から階段を降りるときれいな池があり、釣り人が二人ほど糸を垂らしている。その横を通り、山への上り坂に入る。
堀切ははっきりとしていて保存状態が良好。6号堀切など看板もありわかりやすい。頂上の本丸までは片道25分くらいか、随所にそこそこの上り坂はあるが勧められたストックを持参するほどではない。山としてはハイキング程度の山かな。
本丸からは横の米蔵の曲輪も見下ろせる。本丸は360度の眺望、ここいらの山城はほんと眺めがいい。日本海も見える。
180mと春日山城と同じ標高の鮫ヶ尾城だが、景虎からは景勝のいる御館がよく見えたであろう。自刃したのはそれだけ自分の置かれた劣勢な状況を実感できたからなのか。
友人が腹をこわし、急いで下山。斐太神社に出てしまったが、そこから神社のスピーカーから流れるお囃子の音を頼りに戻る。11時25分駐車場到着。本日はもう1城あり、次の高田城に向かう。
today's ramen
impressions
前日の夕方。逆光の夕日を受けて馬上に立つ謙信公像に別れを告げ、友人がリサーチした高田のラーメン屋へ向かう。
上越市高田の市街地にある宝来軒というお店。ややさびれた商店街の中に駐車場があるのだが、そこから店を見つけるのに苦労した記憶。
入店すると、若い大学生くらいのお兄さんらが切り盛りしていて、接客は元気で悪くない。
攻城後ということもあり、腹はとても空いている。とくつけ麺940円と餃子380円を注文。
ふつうにうまい。魚粉の塊がのせられそれを自ら解きほぐすスタイル。魚介香る濃厚な旨味のつけ汁に太麺を投入、ずるずる食べる。餃子380円も追加。
麺の量は、特、大、小から選ぶことができて、いずれも料金は変わらない。特も選ぶことができたのだが、結構多い、という店員さんの言葉に守りに入った。
いや、大でも多い。胃袋を麺でパンパンにし、何とか食べ切ったが。これは、小をお勧め。