仙台城

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name仙台城
another name青葉城 五城楼
selected100名城 8
location宮城県仙台市青葉区川内

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本丸北壁石垣 脇櫓 政宗像

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攻城日時

2021年12月29日

攻城手段

仙台市営地下鉄東西線

攻城記録

 宮城県の100名城、仙台城。1600年(慶長5年)関ヶ原の戦い直後の12月、初代仙台藩主伊達政宗が徳川家康に願い出て、仙台城の縄張りを開始。居城を岩出山城から仙台平野の仙台城に移し、1603年(慶長8年)入城。

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 仙台城本丸のある青葉山は天然の要害。その東側は広瀬川に臨む64mの断崖、西側は「御裏林(おうらばやし)」と呼ばれる山林、南側は竜ノ口渓谷(たつのくちけいこく)が囲む山城で、守るに易く攻めるに難い、人も馬も通ることのできないまさに要害。 関ヶ原の戦いの後も徳川に敵対していた上杉氏との合戦に備え、山城を必要としたことが仙台城に居城を移した理由。要害に相応しい丘陵地と、城下町や交通の発展が期待できる平野部をあわせ持った仙台平野が、城を築くのにふさわしい場所として選ばれたと言われている。 政宗の死後、二代藩主伊達忠宗(ただむね)は山麓部に二の丸を造営した。二の丸が完成した1639年(寛永16年)以降は、幕末まで二の丸が藩政の中心となった。 明治の廃藩置県以後仙台城は明治政府の管轄となり、明治4年(1871年)には二の丸に軍の施設が置かれた。しかし1882年(明治15年)の火災によりその建物のほとんどが焼失。本丸にあった建物も明治初年には取り壊された。現在の二の丸は東北大学川内キャンパス。三の丸は仙台市博物館。

【伊達政宗】
1567年(永禄10年) 米沢城で生まれる 梵天丸
1571年(元亀 2年) 政宗 右眼失明 (天然痘で)
1579年(天正 7年) 政宗 結婚 (三春城城主 田村清顕の娘 愛姫)
1584年(天正12年) 政宗 第17代伊達家当主
1589年(天正17年) 政宗 奥州平定 (摺上原の戦いで蘆名義広を破り奥州南部を平定 奥州114万石の覇者)
1590年(天正18年) 小田原征伐 秀吉が全国統一(政宗参加※遅参 以降秀吉の配下に入る)
1591年(天正19年) 政宗 米沢から岩手沢(岩出山)城に移る
1593年(文禄 2年) 政宗 朝鮮出兵
1598年(慶長 3年) 秀吉死去
1600年(慶長 5年) 関ヶ原の戦い (東軍についた政宗 上杉家家老直江兼続と戦う)
1600年(慶長 5年) 家康が政宗に覚書(百万石の御墨付)を与える  政宗「千代」を「仙台」と改め仙台城の縄張りスタート
1601年(慶長 6年) 仙台城普請
1614年(慶長19年) 伊達秀宗 宇和島10万石
1615年(元和元年) 政宗 大坂の陣出兵
1627年(寛永 4年) 政宗 仙台屋敷(若林城)の造営許可される
1635年(寛永12年) 参勤交代制の確立
1636年(寛永13年) 政宗 江戸屋敷で死去

【森の都の由来】※ブラタモリより
 仙薹松島塩竈遊覧という明治時代の観光資料に「森の都」という言葉が既に出てくる。 一方で、現在はけやき並木で有名な定禅寺通りは60年前は苗木程度、緑はなく中央分離帯のみがある殺風景な景色だった。つまり戦後はちっとも杜ではなかったのだ。 杜の都とは実は、江戸時代に作られた仙台の街並みを指すことばだった。 高等裁判所の敷地内に杜の都の痕跡あり。樹齢200から300年の木がたくさんある。ここは武家屋敷跡地。武家屋敷群は城下町の7割ほど。当時の武家屋敷はそれぞれの敷地にたくさんの樹木を植えた。結果、城下町全体を見ると緑がいっぱいとなる。これが「杜の都仙台」というキャッチフレーズの所以。 伊達政宗は、豊臣秀吉の奥州仕置(勝手に会津攻めと小田原攻め遅参の咎)により120万石→70万石に減封。しかし家臣をリストラしなかった。政宗は家臣の屋敷の庭にたくさんの木を植えなさいと命令。りんご、あんず、くり、かき、ざくろ、いずれも実がなって食べることができる。お茶、杉松榎などの建材になる樹木も。売ることもできる。それらで生活をまかなえと。未来を見据えた素敵な緑化計画などではなく、とても実用的な事情から出来上がったのが「杜の都仙台」。 1945年(昭和20年)、アメリカ軍の空襲で仙台は一面焼け野原に。江戸時代から続いた杜の都は一度失われた。一旦焼けて滅失した緑だが、仙台市民が政宗の意志を継いで再び森化。現在の杜の都に至る。

【仙台の区割り】
 旧市立病院前の30度のY字路。Y字路を境に東と西で区割りが違う。政宗の往時の頃の区割りは西側。これは仙台城から延びる東西の道を基準に町割りがされている。一方の東側は異なる区割り。町をずらした。東側の古地図には空白地帯があり、幕府に知られてはいけないものが存在した。それは城。当時は1620年(慶長20年)に幕府が出した一国一城令のため領内に城は一つのみしか許されていない。藩政の地図には古御城とあり。幕府には隠居用の仙台屋敷を作ると届け出て、実情は二つ目のお城を作った。それが若林区にある若林城。ちなみに政宗は青葉山に登る労力からか、直前までは既に花壇の屋敷で過ごすことが多くなっていた。若林城で政宗は1628年(寛永5年)から8年過ごした。晩年の政宗が過ごした若林城を中心に町割りされたのが東側エリア。ちなみに若林城は現在宮城刑務所(明治12年から)となっているが、敷地内には土塁や出丸が残っている。政宗が朝鮮出兵の際に母親に見せたくて持ち帰った接木から成長した「臥龍梅」もあり、刑務官や囚人は見ることができるそうだ。 若林城は政宗の死後、建物は取り払われ薬草園になった。そして明治時代、1879年(明治12年)に西南戦争の政治犯の収容を目的として宮城集治監が作られた。日本で最初に集治監ができたのは東京と仙台。写真で見る限りは集治監は網走刑務所のような放射状舎房のように見える。 以上のように、現在の街並みの元となる区割りは全て正宗の仙台城と若林城を中心とするものだったのだ。政宗は今も100万都市に生き続けている。

【正宗の眼帯】
 政宗の肖像画には両眼がある。これは、親からもらった体の一部を損なったのは親不孝である、絵など残るものには両眼を、という正宗自身の遺言によるもの。またトレードマークの眼帯をしていたという事実はなく、あれはフィクションの模様。おそらく1987年放送の歴代視聴率1大河ドラマ独眼竜正宗を演じた渡辺謙が眼帯をしていたからではないだろうか。 独眼竜、という正宗の呼び名は、正宗が始まりではない。もともとは中国の李克用(りこくよう)という武将につけられたものであり、政宗固有のものではない。江戸時代の歴史学者、頼山陽(らいざんよう)が、政宗に「独眼竜」という言葉を用いたことがきっかけで「政宗=独眼竜」のイメージが定着。

【正宗の野望と功績】
 政宗47歳の時に命じ完成したサンファンバウティスタ号。1613年(慶長18年)に自分の使節をヨーロッパに送り出した。石巻から3か月かけてメキシコへ、さらにヨーロッパへ渡った。世界を股にかけた交易、幕府転覆という野望があったとかなかったとか。キリスト教を布教してくれなきゃ交渉には乗れないというスペイン事情により、結局はスペインとの交渉は決裂したのだが。 1611年、仙台平野を津波が襲った。東日本大地震から遡ること丁度400年前。岩沼でその津波の堆積物が発見された。政宗は、作物を育てられない塩害の土地で、塩を生産。塩は仙台藩の財政を支える貴重な財源になった。それとはまた別に新田開発にも着手。その米は政宗の死後江戸の町で食べられる米の三分の一を担うほどになった。サンファンバウティスタも震災復興の意味もあったという説も。震災の2年後、バウティスタは出発した。

【本丸大広間】
 東西245m南北267mと仙台城の本丸エリアは広大。ご時勢がら天守は築かれず、政務や生活の場となったのは本丸御殿。城内最大の建物「大広間」は発掘調査で見つかった礎石跡をもとに、それぞれの間の配置や広さを地表に平面的に表示している。 本丸御殿の中心となる大広間は、格式高い檜皮葺(ひわだぶき)を使用し、内部は上々段の間、上段の間、孔雀の間、檜の間など部屋数の多い大規模なものだった。発掘調査では大広間跡やその周辺から金メッキが施された釘隠など飾金具が見つかっている。このように大広間の内部は障壁画や飾金具で煌びやかに装飾され、聚楽第などの桃山建築を意識した御殿だったと考えられているそうだ。
 また、城郭建築では珍しい「懸造」(かけづくり)も本丸御殿の特徴。懸造は清水寺の舞台が有名。床下を柱で支え崖に張り出すように建てられ、張り出した部分には廻縁を設けていた。今もとても眺めのよい本丸跡だが、政宗も城下町や広瀬川、遠く山々や海を眺めていたのだろうか。
 2台藩主忠宗の時代には二の丸御殿が造られ、政務の中心もそちらに移った。
 豪華絢爛な本丸御殿は1874年(明治7年)頃に取り壊され軍の施設になった。二の丸御殿も1882年(明治15年)の火災で焼失。

【本丸北壁石垣】
 本丸北面の石垣は、長さ179m、最も高いところで17m。発掘調査の結果では3期の石垣を確認、1期は築城当初、2期は1668年(寛文8年)の地震以前、3期は地震囲碁の修復石垣。1期は野面積み、3期は切込剥。石垣の修復作業は平成にも実施されたが、現在あるのは3期目の石垣。これは東日本大震災でも崩れなかった。 ちなみに、江戸初期の頃は石垣の上に艮櫓、東脇櫓、西脇櫓の3つの三重櫓があったそうだ。しかし櫓は正保の大地震で倒壊、再建されることはなかった。

【その他の石垣】
本丸北西面、西面、本丸酉門跡の枡形にある石垣(立ち入り禁止 柵越し見学)など。今回は足を延ばさなかった。再訪の折には見たい。

【瑞鳳殿】
 今回は訪問せず。次回こそ。
 瑞鳳殿は、1636年(寛永13年)70歳で死去した政宗の遺命により、その翌年に経ケ峯に造営された霊屋(おたまや)。(そういえば「御霊屋橋」とか「花壇自動車学校」だとか実は政宗関係の地名は多いのだ)瑞鳳殿は、本殿、拝殿、御供所、涅槃門からなり、桃山文化の遺風を伝える豪華絢爛な廟建築として1931(昭和6)年、国宝に指定。しかし1945(昭和20)年の戦災で惜しくも焼失。現在の建物は1979年(昭和54年)に再建されたもの。2001年(平成13年)、仙台開府400年を記念して大改修工事が実施され、柱には彫刻獅子頭を、屋根には竜頭瓦を復元し、創建当時の姿が甦った。

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 さて、仙台城。仙台は2年ぶり。新型コロナの感染拡大で2020年の正月以来まるまる2年帰省することができなかった。最近はオミクロン株が流行り出し再び不穏な様相を呈してきたが、首相が菅さんから岸田さんに変わったあたりからコロナの潮目も変わり、感染者数がみるみる減少。この11,12月は東京の感染者が1日10人を下回る日が続いた。 しかし年末にかけて感染者数はゆるゆると、しかし着実に増加。昨日の東京は45人だった。とは言えピーク時に比べれば塵のような数なのだが。気持ちよく帰るために、帰省前日に新橋のピカパカでPCR検査を受けた。陰性の結果を得て、それを免罪符に慎重に帰省する。 10時4分東京発、東北新幹線こまちに乗り11時39分仙台着。東北新幹線からの車窓は雪で白い。田んぼも道路も白いが、天気は快晴。

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 仙台駅構内で郷土料理屋に入り塩牛タン丼を食べ、出発。仙台市営地下鉄東西線に乗り5分210円、国際センター駅で降りる(西出口1)。仙台市営地下鉄の東西線には初めて乗った。自分が子どもの頃に南北線ができたのだが、東西線ができたのは仙台を離れた後なのだ。八木山公園行き、という電車表示に時の流れを感じる。八木山動物園に地下鉄で行ける日が来るとは。 話を戻す。降りた国際センター駅について事前にはイメージがはっきりしなかった。仙台を離れてもう20年以上経つ。国際センターの辺りは原付で大学に通っていた時のぼんやりした記憶だ。外に出るまではどんな場所に出るのだろうと思っていたのだが、出てすぐによく知った場所だということに気づく。大学生の頃、信号で停止した下り坂でサイドブレーキが甘かったのか前のワゴンに追突したことがある。その場所だった。コツン、と、幸いゆっくりの衝突だったため軽いキズで済んで、向こうのおじさん二人も許してくれたような記憶。あれももう20年以上前になるのか、懐かしい。攻城の記録なのに、この辺りを書くと懐かしさで停滞してしまう。
 さて、国際センター駅の西出口1から出て、左(南)を向き、東北大学河内キャンパス(二の丸跡) を右(西)にして南下する。この二の丸について少し触れておく。二の丸は2代藩主伊達忠宗(ただむね)が1639年(寛永16年)に造営したもの。 造営後は、二の丸が藩政の中心となり幕末まで続いた。二の丸は藩の実務を執り行う建物のほかに、藩主の居所も置かれ藩政の中心として機能していた。しかし1882年(明治15年)火災により建物のほとんどが焼失。二の丸は、本丸も含めて明治の初めに取り壊された。そんな二の丸には扇坂なんていう江戸時代の道の遺構も残っていてちゃんとした看板も出ている。今回は下から階段を見上げるくらいでスルー。 そのまま南下。道には雪が残っている。雪に喜んでいた娘は、雪の上に残るカラスの足跡に感激している。木の実をくわえたカラスを可愛いと言い、空が綺麗と言い、その都度iphoneで写真を撮っていた。東京育ちの娘には冬の仙台の自然がとてもきれいに映っているのだろう。
 国際センター駅からは350m、5分ほど南下すると、ほどなく脇櫓に到着。東西に大手道が延びる大手門に対して、右から入ってきたような格好になる。復元物が少ない仙台城にあって唯一と言っていいこの脇櫓、一際目を引く。地面の白さと櫓の白壁の調和がとても美しい。大きさは思っていた以上だった。高さ、というより幅のせいか。内側から見ると一つの武家屋敷のようにも見える大きさだ。 この脇櫓の横には本来は大手門があった。戦前には国宝指定。しかし1945年(昭和20年)の仙台空襲により脇櫓や巽門と共に消失。焼失した大手門は秀吉の名護屋城の大手門を移築したという説があるほど、門構えや造りが古かったそうだ。脇櫓のみ1967年に民間の寄付で再建。ただし屋根の形状等に一部史実と異なる点がある様子。 ちなみに大手門の復元プロジェクトが始まるというニュースを知った。スタートは2021年とあったのでもう既に着手しているのかもしれない。正宗没後400年となる2036年を、市長の郡さんは目標にしている模様。2036年は14年後、自分は58歳、大病を免れることができていればだが、健脚のうちに復元大手門を歩くことができる。老朽化した脇櫓も合わせて解体し、史実に沿った形で復元される予定。とても楽しみ。 脇櫓の道路を挟んだ反対側には、大手門北側土塀が残る。ここは建築物としては仙台城唯一の遺構だそうだ。東日本大地震で崩落したが復旧。漆喰なども新しくしている。その他、この付近にはサンファンバウティスタ号の支倉常長の銅像も建立されている。
 さて、脇櫓の西側の道路を南下する。脇櫓手前から既にそうなのだが、緩やかな登り坂が続く。道なりに進むとブルーシートをかぶった中門石垣が出てくる。ここも東日本大震災で崩落。復旧はまだされておらず、青いシートを被っている。ブルーシートの中門の上に立ち見下ろすと、門の石垣の間を車が往来している様子がよく見えて、よりそれが門であることがわかる。発掘調査では金箔瓦も出土。豪華な門だったのだろう。中門は1920年(大正9年)まで残るもその後取り壊され、一部の木材は旧陸軍の第二師団長官舎の正門に再利用されたと考えられている。それが現在は移築され、宮城県知事公館の正門として公開。
さらに道を進む。歩道はそう広いわけではなく、雪もしっかり残っており若干歩きにくい。足が滑るたびに山履を履いてくればよかったと軽く後悔する。
 博物館(三の丸跡)の敷地に入ることができる沢門跡を通り過ぎ、道は一旦大きく東の方に湾曲して、西に延びる。このエリアが本丸北壁石垣。この石垣は確か17mと書いてあっただろうか。眼前にすると体感としてはもっと巨大。仙台城にこんな遺構があったのか、と嬉しくなるような圧巻の石垣群。地面はきれいな銀世界、また石垣の切れ目に雪が残り、まるでガトーショコラに上から粉砂糖を振ったかのよう。雪の時期に、本丸北壁石垣を見ることができたのはよかったのかもしれない。とてもきれい。
 さて北壁石垣を左にして進むと、ほどなく左側の視界が開け鳥居が見える。ここは本丸護国神社(本丸詰ノ門跡)。るーぷる仙台バスの停留所にもなっている。鳥居をくぐって階段を真っ直ぐ登ると、そこがゴール。本丸大広間エリアに到着。 本丸大広間エリアは過去に数回観光したことのある見知った場所。広い本丸エリアをざっと見渡し、まずは、仙台城見聞館に入りスタンプを押す。スタンプは赤色。やや失敗。やはりきちんと本を平らにして押すべきと反省。見聞館にVRがあると思っていたのだがどうやらここにはないらしい。見聞館を出て、本丸大広間エリアの外周を景色を見ながら歩く。ここは絶好のロケーションで、広瀬川や眼下に広がる市街地のビル、遠くの山並み、海と、仙台平野を一望することができる。仙台は本当に良い場所だと、改めて思う。出たからこそ良さがよりわかる気がする。今日は快晴で空気も澄み、遠くまでよく見渡すことができる。娘もきれいきれいと空や景色を写真に収めている。 そして、景色を見つつもちらちらとその方向へ目はやっていたのだが、政宗騎馬像の足元へ。この騎馬像、やっぱり格好良い。きれいな明るい冬の青空を背景に、逆光で黒みを増した政宗像のコントラストが際立つ。これまで、ああこれ格好いいなと思った像は、山形城の最上義光だが、やはり政宗が一番か。いろいろな角度から写真に収める。政宗騎馬像は、政宗もさることながら騎馬も筋骨隆々で迫力あり。睾丸や肛門もかなりリアルに作られている。ちなみにこの騎馬像は3代目。 ここ本丸エリアにはそこそこ人が集まっていて、留学生らしきアジア人グループが記念撮影ではしゃいでいる。別のアジア人ご夫婦にも記念撮影をお願いされ快諾、縦横4枚ほど撮る。時間は14時半頃。土井晩翠像を見て、大広間を突っ切り引き返すことに。
 帰りは途中の沢門跡から仙台市博物館の三の丸エリアに入り、初代政宗胸像などを見て帰ることに。石垣が残る清水門を通り、やや上から目線な魯迅像を見て、ほどなく政宗胸像を発見。この胸像は初代の元騎馬像。今は胸から上しかないが、たくましい筋肉、広い背中が迫力ある。目は両眼とも開いていて隻眼にはなっていない。政宗の遺言が確かそうで、死後残す自分の絵などには目をきちんと描けとお達したとのこと。この両眼の政宗もその影響か。この胸像の歴史を少し書くと、1935年(昭和10年)政宗没300年を記念して建立。しかし戦時の金属類回収令により1944年(昭和19年)に軍に回収された。ところが、翌年戦後となり塩釜市で胸の部分のみ発見。三の丸跡の博物館の庭に設置された。ちなみに2代目は岩出山城跡に設置されているそうな。うちの母親は子供の頃の遠足でこの2代目を見ていたそうな。
 さて、入れなかったが残月亭や三の丸東側土塁などを歩き見やり、すこし帰途の足を速め、再び脇櫓に戻ってきた。脇櫓の上に虹色に光る雲を娘が発見。どういう自然現象なのだろうか、とてもきれい。 脇櫓の近くには日本フィギュアスケート発祥の地、五色沼があり、ちらっと見物。羽生結弦くんといい荒川静香といいここといい、仙台はフィギュアスケートのメッカである。国際センター駅に戻ると、そこにもゆづくんと荒川静香のパネルが展示されていた。 時刻は15時18分。仙台駅経由で南北線に乗り換えると太子堂には15時40分には到着する。実家には16時前には着く。仙台城の攻城はこれにて終了。本丸北壁石垣など初めて見ることができた遺構も多く、また押していなかったスタンプも無事に押すことができ、とても満足。よい攻城だった。その後は実家に2年ぶりに帰り父母と再会を喜び、丸源ラーメンに行き、娘と冬の星座観察に近所に出かけ、掘りごたつで寝てしまい23時半頃起こされ、風呂に入り、くっきり見える北斗七星や冬のダイヤモンドの星空観察第二弾をし、そして今3時前、布団の中でこの記録を書いている。明日で2021年もおしまい。コロナは続くが楽しいことをそれなりに楽しむことができた一年だった。そんな一年の最後に仙台城に行けてよかった。寝ます。

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today's ramen1

『丸源らーめん』 (JR線太子堂駅 仙台市営地下鉄富沢駅 長町南駅) 熟成醤油味玉肉そば 750円



impressions

 仙台の帰省はいつも正月。ここは確か29か30までオープンしている。結果もはや恒例イベントとしていつも丸源でラーメンを食べる。焼肉キングも経営する物語コーポレーションのチェーン店なのだが、なかなかどうしてバカにできないおいしさ。ここの肉そばはうまい。餃子もうまい。今回の2年ぶりの帰省中もご多分にもれず父母たちと足を運んだ。写真を失念しアップできないが、相変わらずのふわっとした美味さであった。ごちそうさま。どうかこの場所で長く続けてもらえますように。



ラーメンの写真



today's ramen2

『中華そば しば田』 (京王線仙川駅) 中華そば 900円



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 仙台と並び我がホームタウンにある有名店。急行も停まらない私鉄の、さらに15分ほど歩かなければいけない立地であるのにも関わらず客足は絶えない。いつも行列をなしている。 雨の降る中この日も店に足を運ぶ。14時に到着したが店前の道路沿いには10人ほどが列をなしている。この立地でさらに雨の中この列。さすが人気店。 しば田と言えば醤油、醤油ならしば田と称される完成された醤油ラーメンで有名。 津軽鴨、比内地鶏、丹波黒鷄、会津地鶏の4種の出汁を、7種の醤油と日本酒に合わせた門外不出のタレを使用した醤油スープ。そのふわっとした芳醇な香り。 麺は中細麺で醤油がよく絡む。二枚で器いっぱいに広がる大ぶりのチャーシュー。薄く笹掻きにされたメンマ。細切りにネギ。やはりうまい。とてもうまい。どうかこの場所で長く続けてもらいたい。
ちなみに店長は、黒縁眼鏡で豊かなあごひげ(そう清潔感を感じるような髭ではないが)。このコロナ禍では皆マスクをするが、彼がつけるとすごい。上から黒ぶち、白マスク、黒もじゃ髭。 食べログの記事によると『音響関係の仕事に従事していたが、大好きなラーメンを食べていた折「これなら仕事として腹を決めて向き合えるかもしれない」と「麺屋武蔵」に入社。その後、自身のラーメンに対する幅を広げたい思いから、当時様々なラーメンを変幻自在に提供していた吉祥寺「音麺酒家楽々」の門を叩く。2013年「楽々」の閉店を契機に、飽きの来ない中華そばの味を追求する「しば田」を調布市青葉町に開店。』



ラーメンの写真 ラーメンの写真
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