品川台場

Basic information
name品川台場
another name品海砲台 第3台場
selected続100名城 124
location東京都港区台場1丁目10

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Photo

第3台場の写真 台場内 かまど跡

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遠景 第3台場の写真 第3台場の写真 第3台場の砲台跡の写真 第3台場の写真 第3台場の写真 第6台場の写真

遠景 入口 かまど跡 外周の石垣 台場内 かまど跡 砲台跡 陣屋跡 火薬庫跡

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Data




Map




Record

攻城日時

2019年7月20日
2019年9月7日

攻城手段

ゆりかもめ 徒歩
りんかい線 徒歩

攻城記録

 東京の続100のうち一つ、品川台場。幕末に海防のため、諸藩に分担して築いた、砲台場。

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ゆりかもめでお台場海浜公園へ。しかし、先に着いた友人からまさかの閉鎖の連絡。トライアスロン大会の準備云々で公園は一日閉鎖。第3台場ももちろん、スタンプも押せない。仕方なくレインボーブリッジ歩道から見学。

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 さて品川台場。 当初11から12基の砲台場を建設することを計画。1854年4月に第1台場(川越藩)、第2台場(会津藩)、第3台場(忍藩)完成。12月に第5台場(庄内藩)、第6台場(松代藩)完成。第4と7が財政難で頓挫。第8以降は未着手、全て計画倒れに終わる。そもそも千葉側にも作りたいのにお金がなく品川側のみ、という計画当時から金欠プラン。ちなみに砲台設計は伊豆韮山代官江川太郎左衛門英龍。このうち、第3台場が続100指定。第6は足を踏み入れることはできないが、レインボーブリッジの歩道から見下ろすことができる。入れない、緑に覆われて中が見えないだけに余計に気にはなる。 台場の石垣をレインボーブリッジからじっくり見る。石垣全体としては、乱積み以上谷積み以下、打込接以上切込接以下。幕末の建設だけあって堅固な技法が見られる、ような気がする。しかしそこに丁寧さや豪華さは感じられない、ような気がする。

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 1853年、マシューペリーの4隻の黒船来航でバタバタ、急ごしらえを迫られた当時の幕府を思い浮かべる。巧遅は拙速に如かず?が功を奏したのかなんなのか、一年後に来航したペリーは品川沖までやってはくるものの、5つの台場砲台のおかげか横浜まで引き返したそうな。結局5つの砲台は日の目を見ることなく、方針も変わって開国。などとレインボーブリッジでウィキペディアのお世話になる。何せ本日は閉鎖。足は踏み入れられず、台場を見下ろす以外はスマホでググるしかない。
レインボーブリッジから眺める第3台場と第6台場。借景がフジテレビというのがまたおもしろかった。水深5mの海を埋めたてた当時の江戸湾。もともとこの位置は「永代の押し出し」という隅田川河口の水流が強いところだったそうな。そんなアウェーの立地なのに、黒船に怯えて強引に作った結果、1855年(安政2年)の10月2日22時に起きた安政の大地震で大打撃。この地震でどの台場も大砲は台座から転がり落ち、地面が割れて水が噴き出す被害を被ったらしい。さらに建物内部で火災発生。会津藩の第2台場では火災が起きているにも関わらず、起きていないフリ。第6台場の松代藩から「火かなり出てるけど消化手伝おうか?」とのオファーにも固辞。火を出したという藩の恥辱の隠蔽と、藩士たちの命。隠蔽が勝ったそうな。100人以上が亡くなられたとのこと。今も昔も弱者は浮かばれない。など相変わらず台場を見下ろしながらウィキペディアのお世話になる。

 後日、再訪。マリンハウスでスタンプを押し、第三台場に上陸。砲台跡、かまど跡、火薬庫跡、陣屋跡など見学。9月上旬でまだ暑く、草がぼうぼう。火薬庫跡などはほぼ草に隠れてしまっていた。こんな海を当時の技術で埋め立てて、砲台場を築いた江戸後期の職人の偉大さを改めて思った。

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today's ramen

『あら焼き鳥白湯カシムラ』 (汐留、東新橋) 乱切りつけ麺 780円



impressions

汐留から歩いて10分ほど。築地に近いことから新鮮な魚のアラを使っているという店。乱切りつけ麺 780円を食す。
麺がほんとに乱切り。細かったり太かったり。おかげですする時に麺が暴れまくり、机に汁をとばす。スープ、鶏白湯なのだろうが、アラのおかげで煮干しのような感じさえする。コクがあってうまい。チャーシュー、メンマは普通かな。ごちそうさまでした。



ラーメンの写真
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