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Data
- 築城年: 鎌倉時代
- 廃城年: 1874年
- 城郭タイプ: 平山城(梯郭式)
- 天守タイプ: 層塔型(複合式)※三重櫓 1995年木造復元
- 築城主: 白石氏
- 主な城主: 白石氏、蒲生氏、上杉氏、片倉氏
- 関係する武将: 片倉小十郎景綱、片倉小十郎重長、真田幸村
- 主な遺構: 石垣、移築門
- 主な石垣のタイプ:
Map
Record
攻城日時
攻城手段
攻城記録
宮城県の続100名城、白石城。別名、益岡城。伊達政宗の仙台城の支城として、1602年(慶長7年)に片倉小十郎景綱が入城。以降、11代260年間にわたり片倉氏が居城した。片倉氏が白石城に入城した経緯は、関ヶ原の頃に遡る。
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1600年、関ヶ原の戦い直前に、徳川家康による会津征伐で侵攻を担った伊達政宗が、上杉景勝家臣の甘糟景継の白石城を攻め落とす。結果、1602年伊達氏に刈田郡が加増され、白石城に片倉小十郎景綱が入城。片倉小十郎景綱は伊達氏の家臣でありつつも幕府への功績もあり、伊達家臣でありながら江戸屋敷も認められるほど。1615年家康の一国一城令の際にも、大名に準ずる片倉小十郎景綱の白石城は例外的に存続が認められた。景綱はこの年に亡くなっている。
※片倉小十郎景綱
片倉小十郎景綱は、出羽国置賜郡下長井宮村(山形県長井市)の米沢八幡宮神主の子として生まれる。伊達輝宗に見出され終生伊達家に仕えた。政宗に小田原参陣を決意させたり、その智将ぶりは国家の大器として豊臣秀吉、徳川家康からも高い評価を得ていた。
※片倉小十郎重長
片倉小十郎重長は、片倉氏2代目。初陣は1600年(慶長5年)の白石城攻め。本丸への先登の功を挙げた。大坂夏の陣では伊達の先陣として武勇を発揮。道明寺口で、大阪城から出撃してきた後藤又兵衛らの軍と戦い、打ち破る。その後、真田幸村勢と激闘。鬼小十郎の名を轟かせた。この戦いの際に、大阪城落城前夜に自らの死を覚悟した真田幸村から子女を託された。子女は、白石城二の丸で密かに養育されたという。阿梅は後に重長の後室となった。大八は片倉四郎兵衛守信と名乗り、片倉家家臣から後に伊達藩士に取り立てられた。したがって、仙台伊達には、真田幸村の血も続いている、ということか。
片倉氏以前の白石城について。白石城の城主は、古くは白石氏。鎌倉時代から陸奥国刈田郡を代々治めていた刈田氏(のちに白石氏と称する)が、伊達輝宗(政宗の父)の頃に伊達氏の家臣となる。白石宗実は政宗の家臣として、秀吉の朝鮮出兵にも参加している。伊達氏傘下の白石氏の治世の後は、蒲生氏郷の傘下、上杉景勝の傘下になり、1591年に蒲生郷成(蒲生氏郷家臣)の時と、1598年に甘糟景継(上杉景勝家臣)の時に白石城を改修。そして再び伊達氏の傘下となり、片倉氏が明治維新まで治める。 ちなみに白石城。戊辰戦争時に、奥羽列藩同盟の集会を行った場所でもある。仙台藩、米沢藩の呼びかけに対して、奥羽諸藩が白石に参集した。
さて、白石城。白石駅に8時30分に着。白石駅から白石城までは徒歩16分(1.1km)だが、まずは延命寺へ。この延命寺には白石城の厩口門が移築され残っている。猪目のような破風は片倉氏のシンボルなのだろうか、その後もよく目につく。延命寺から白石城へ向かう。当時の堀だろうか、趣きのある整った水路に沿って西へ歩く。遠く雪をかぶった蔵王がきれいに見える。10時前、白石城着。
▼read more!実質は三階櫓だが、北側の高い石垣の下から見上げると立派な天守風。起伏のある桝形虎口を通り本丸跡へ。本丸跡から見る白石城は、石垣が見えない分やはり三階櫓。1997年の復元天守で天井にはスプリンクラーなどが見えるが木造。出来る限り忠実に再現してあり、階段も急勾配。天守入口入ってすぐにスタンプ設置場所があり、係の人と話しながら押印。何城目か?というお決まりの質問に、100は半分弱、続は10ちょっとでまだまだだと返す。天守内部は特別に見所はない。1階に片倉氏のパネルが多少あるくらい。3階へ。最上階は四方に大きな火頭窓があり、そこから回縁に出ることができる。回縁に出て一周。今日は1月4日、空気が澄んでいて、蔵王の御釜方向もとてもきれいに見晴らすことができる。とても気持ちが良い。天守を後にし、当信寺経由で駅方面へ。当信寺には白石城東口門が移築され残っている。ここの破風も猪目風。10時20分白石駅着。10時34分白河に向け出発。
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impressions
白石と言ったら、もう白石うーめん。白石駅前には、うーめんの看板がちらほら。しかし、時刻は朝の8時半。どこも開店していない。今回は見送ることに。