高田城

Basic information
name高田城
another name高陽城 (コウヨウジョウ) 螺城(ラジョウ) 鮫ヶ城(サメガジョウ) 関城(セキジョウ)
selected続100名城 132
location新潟県上越市本城町

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Data




Map




Record

攻城日時

2022年5月4日

攻城手段

SR400

攻城記録

 新潟県の続100名城、高田城。天下普請により4か月で築城した、徳川家康の6男松平忠輝の城。高田城では石垣は築かれず、広大な水堀と高い土塁を築き城を守っていた。

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 福島城城主であった堀忠俊(ほりただとし)は1610年(慶長15年) に改易され、徳川家康の六男松平忠輝が福島城に入った。 忠輝は1614年(慶長19年)3月から伊達政宗、上杉景勝、真田信之、佐竹義宣、前田利常ら13大名に命じて、天下普請による高田城の築城を開始した。 同年7月に完成し、福島城は廃城となった。しかし忠輝は大坂夏の陣への遅参などを咎められ、1616年(元和2年)に改易される。 その後、親藩、譜代の藩主が入れ替わって幕末を迎えた。
高田城は、高田平野の西部を流れる関川(せきがわ)沿いの低丘陵に位置する。蛇行する関川の流れを変えて外堀とし、縄張はすべて大規模な土塁で行われている。 水堀は広大で、その中に本丸、二の丸、三の丸が輪郭式に配置されていた。二の丸と三の丸は不整形な形をしていた。 ※三重櫓は1993年(平成5年)上越市が再建した。(日本の1000城本より引用)

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 さて、本日2城目の高田城。鮫ヶ尾城を出発して、12時15分着。外堀と赤い橋、遠くの山並みがきれい。昨晩一度来ているから何となくの位置関係はわかる。外堀沿いをちょっと歩く。

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 蓮は4日間しか咲かないらしいが、咲く蓮を見ることができたならこの景色はもっときれいなのだろう。内郭に進むと土塁などの遺構もきれいに残っている。 まずは三重櫓へ。復元で多少おもちゃのレゴっぽいが、でもまあかっこいい。黒基調のプラモデルのようだ。入館料は380円。続100スタンプもここに設置されている。これで続100は40城目。 ミニシアターがあり、上越市の三城の映像を見て勉強。戦国期は春日山城、豊臣時代は直江津に福島城、そして江戸時代は高田に高田城と遷移したという内容。 高田は130万石という意外にも大きな藩だったということもわかった。三重櫓を出て、最後に極楽橋へ。先ほどの映像のおかげで、極楽橋の両サイドには多聞櫓が配置され、橋を渡ったその先は桝形になり本丸に続くことがイメージしやすかった。 多聞櫓の土塁は今もきれいに残る。
これにて攻城終了。外堀に向かってベンチがあり、そこに座って蓮の名残りを眺めて休憩。13時50分発。上越高田ICから高速に乗り東京に帰る。

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 ところが、東京には帰れなかった。

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 いまは22時30分。長野市の一泊2万円のホテルにいる。本来なら今頃は自宅に着いてる時間。なぜこうなったか振り返る。

【前日(往路)】
 そもそも前日からおかしかったのだ。寒さからくる低体温症か、貧血か、気圧の変化か、精神的なものか。150km走り佐久平PAで休憩した後からおかしかった。 特にトンネルは元々恐怖を感じてしまい最近は苦手だった。トンネルに入った時の気圧の変化なのか自分の血圧なのか、入った瞬間に不安になる。呼吸が荒くなり、胸がばくばくして、意識がぼんやりしてきて、手の感覚がなくなっていく。 パニック障害とか適応障害とか、いやな言葉がよぎる。 低速で友人に前を走ってもらうことで、調子を取り戻して佐久平PAから140km走ることができ目的地に着くことができた。この時点では、明日の復路が不安だったが、最悪、友人に前をゆっくり走ってもらえればなんとかなると思っていた。

【高速に乗る前】  翌日12時くらいだったか。高田城をそろそろ出発という辺りで、不安が増してきた。やはり調子もちょっとよくなかった。若干の動悸と若干の気持ち悪さ。不安が増してきたのが先か、体調不良が先か、わからない。 悪循環だったのかもしれない。それでも下道は普通に運転できたし、60,70kmくらいのスピードを出しても全然平気だった。高速に入り前日のようになっても友人に前を走ってもらうことで解決できると思っていた。 だから高速に入った。

【高速に乗った後(復路)】
 上越高田ICから上信越道に入った。先頭を走る。85kmくらいで自分の体調の様子を見る。やはりあまりよくない。それでもトンネルじゃなければ何とか走り続けられるのでは、と思っていた。 ところがやはり前日と同じ症状が現れる。動悸がしてきて呼吸が荒くなり血圧が低下する感覚と同時に手の感覚もおかしくなる。今日は気温が25℃と暑い。暑いが冬用の手袋をしていた。その中が手汗でびしゃびしゃになっている。足もそう。 靴の中ではかなりの汗をかいている。パニック症候群や適応障害系の何かか、熱中症的な何かか、メニエールとか三半規管系の何かか、わからない。とりあえず運転し続けるのが危ないことだけは確かなことで、 意識がとび高速で転倒する映像が頭をちらつく。この時点で出発してからまだ30kmくらいの地点だったか、待避用に多少スペースのある路肩に停車。何分くらいだろう。 この辺から時間感覚がなくよく覚えていない。症状は完治には程遠いがこのまま路肩にいる訳にもいかず、再出発。友人に前をお願いし、パーキングに入るかどうかはこちらの合図に任せてもらうことに。 走り始めてすぐに妙高SAだったかな、そこまで2キロのような看板が出てきたような記憶。悩む。このペースでは東京に何時につけるのか、行けそうならそのまま行きたい。 SAまで500mの看板を過ぎても、尚悩んだ。直前まで悩むも、結局はもう少しいけるという判断。SAを通り過ぎた。この判断がまず一番よくなかった。体調は確かにおかしかったのだから。 SAを通り過ぎると、これでしばらくは止まれないという不安にかられる。動悸や荒い呼吸、血圧の低下、手の感覚が鈍くなり、意識がふと遠くなるような感覚など、全てが増した。 そのまま走っていられず、今度は普通の路肩に緊急停車。路肩に止まるのも危険だが、次のパーキングまでの走行はまず無理。転倒しそうな予感がしたので、ハザード出してとにかく停車。 通る車が近いためバイクを盾に隠れるように路肩側に座る。ここも何分くらい休んでいたのだろうか。赤色灯が回る高速警察の車が横にとまり、2人の若い警官が降りてきた。 どうした?ここは危ない、と。こちらの様子から察したのか、具合が悪いのですか?と聞いてきた。よくない、ここは危ないのはわかるのだが申し訳ないがすぐに移動が難しい旨伝える。 最初は怪訝な顔して降りてきた2人もこの辺りから優しく同情的な、でも困ったような顔になる。事情はわかるがここは危ない。次のインターまで後ろをついていくからそこから降りて休むか、それとも今救急車を呼ぶか、どうする?と問われる。 そうは言われてもこちらはいかんせん自分の体調や状況が把握できていない。いけると思っても走り続けられず、いまここに座っているのだから。この辺りからマクがはったように思考がぼんやりになっていた。 会話はできるし理解はできるがぼんやりして判断を迫られる問いに答えるのが難しい。ちょっと休んでから決めたいと伝えると困りながらも同情的な2人は、もう少し行くとバス用の待避スペースがあるからそこまでいって休むか、という第三の提案をしてくれたように記憶している。 怪しいけど。たしか、ちょっと休み、バス用の待避スペースまでパトカーが後ろからサポートしてくれて、たどり着くことができた。この移動も最初は80km程度の速度でいけそうかと思いきや 結局はすぐに同じ症状になり、最後は50,60kmのスピードだったかな。とにかく指定の比較的安全なスペースにたどり着き、奥の小屋の裏で横にならせてもらう。決してきれいじゃなくて、 普段なら絶対にそのまま横にはならないだろう場所だった。でも朦朧としているから関係なく横になる。目をつぶり早くよくなってくれと願いながら安静にする。しかし、あまりよくならない。 困った。しばらく横になり、でもこのままでは事態が膠着すると思い、立ち上がり警官のところへ。ここでインターor救急車の判断を迫られたのだったろうか、はっきりしない。 とにかくこっちはぼんやりしているからそんな難しいことは判断できない。バイクはどうしようか、友人はどうしようか、お金はどれくらいかかるのか、どうするのが一番なのか、自分の体はどうなってるのだろうか。よくわからない。 警官から体調を繰り返し聞かれたが、よくわからないのが正直なところで、困ってた。結局、友人にはそのまま東京に向かってもらい、そこで別れて、自分は次のインターで高速を降りることにした。 次のインターまでまたパトカーのサポートを受けてなんとかたどり着く。最後5,60kmの低速でしか走れなかったのはここだったろうか、はっきりしない。パトカーも一緒に料金所を出てくれて、 NEXCOの駐車場に入る。パトカーのお兄さんが一緒に管理事務所まできてくれて、この人休ませてあげてとお願いしてくれた。管理事務所の人も幸い同情的で、どうぞそこのベンチで、と許可を得る。 警官にお礼を言い、ベンチで横になる。回復の程度によるが、この後どうしようか、ぼんやりした頭で考えるも、ぼんやりしているから深く考えることができない。 一つはっきりしているのはもうバイクに乗り高速では帰れないということ。これだけははっきりきているから、レッカーと新幹線で帰るほかないだろうとぼんやり考えていた。 しかし症状は治まらなかった。動悸はやまないし、血圧が低下している感覚も戻ってこない、依然としてぼんやりしている。横になり続けることどのくらいの時間が経ったのか、 改善するどころか、横になっても更に意識が低下しそうな感覚がやってきたので、ここであきらめて119番をした。 結果なんともなかったら申し訳ないし、そして救急車って負担あるのかどうかなど、あれこれぼんやり考えるも、でもさすがに横になって意識が尚薄れていくのはもうまずい、ということで電話した。 どうした?どんな症状か?そこはどこだ?あれこれ聞かれたがいかんせんぼんやり状態。何インターで降りたかもわからない。管理人さんを呼ぶも料金所の方に出払っていて不在。 よろよろとインターの名前を確認しに外に出る。妙高高原ICという名前だと確認、そう伝える。すぐいくから待ってて、と言われ電話を切る。 さて、ぼんやりながらも、このままバイクがレッカーになったら、バイクから今何を回収すべきか必死で考え、結局ETCカードは抜いた。ぼんやりするし体はおかしいのだけど、でも体は動くのだ。 動くけど明らかにおかしいのだけど。あとは。荷物を多少入れ替えて、、と考えているうちにサイレンが近づいてきてお迎えが来たことを知る。電話してから結構すぐだ。さすが救急車。

【救急車】
 隊員は3人くらいだったか。救急車に乗るのは人生初だ。最初のやりとりはあまり覚えていないが、症状を繰り返し聞かれ、ストレッチャーに乗せられ、救急車の中に入り、現在と時系列の症状を繰り返し聞かれ続ける。 ぼんやりしているから自信はないがたぶん繰り返し聞かれ続けた。右横にいるお兄さんが症状を、足元にいるお兄さんが名前や住所等を。で、ぼんやりしているから一つ一つの応答がたぶん遅いのだが、 遅いからか、症状について質問を受けてそれに答えていないうちに別のお兄さんが住所等を聞いてくる。これにはぼんやりしながらも困った。右にいた症状を聞く担当のお兄さんが「□□さん家が○○なんですね、自分も大学の時○○近くの△△に住んでいたから○○が懐かしくて」なんて話をしてくれて、 ぼんやりしてたのにそこだけは反応よく大きなリアクションができた。何となくの記憶では胸にペタペタ心電図のシールを貼られ、左の指先には血中酸素濃度のパルオキシメーターって名前だったか、はめられ、話しながらもお兄さんたちは心電図をずっと見ているような雰囲気だった。 こっちはぼんやりしているから、目はあいていたのに前方(車の後方)しか見ることもなく、車内の様子ははっきり記憶にない。カーテンの隙間からたまに見える景色と、揺れで高速道路を走っていたことは覚えている。 何か聞かれて、その答えがパルオキシメーターを使う左指を使わなければできないリアクションを求められることで、はめてるんだから指で答えられないだろうが、困る、答えられない質問をしないでくれ、と考えていた記憶とか、そんな理不尽に感じたやり取りに関してはよく覚えている。 乗ってすぐ体温を測られ、37.5度だと言われ、びっくりして、えっ熱あるんですか?と聞くと、でもまあ今日の暑さでバイクに乗ってたらそのくらいはあるかもと言われ、でも動揺。 もしかして熱症状なのか?と。コロナか?と。でもおでこ触ってもむしろ冷たい。それはぼんやりしながらここに至るまで何度か自分で確認したこと。だから動揺したのだが。 結局少し後に再び測ったら37.1で、この時点で救急隊員たちは発熱ではないと判断した雰囲気。リーダー格らしき髭のお兄さんには、救急車で向かう先を聞かれた。 大きな病院はここから3,40キロある、近くだと診療所になる、どうする?どうすると聞かれてもこちらはぼんやりな上に勝手がわからない、どっちを選ぶのがベストなのか困った。 困ってると、診療所だと後でバイクを取りにきやすいでしょ、と。なるほどそんな心配をしてくれていたのか。いやバイクは二の次でいいです、と答える。 答えながら、大きな病院の場所を聞き、それが上越高田にあることを知る。新幹線で帰るとなるとそこまでどのみちいかなければならず、ぼんやりながらもそんな打算も辛うじて働き、大きな病院をお願いした。 それが新潟県立中央病院。皮肉にも、さっきまでいた高田城のすぐ東の方にある病院だった。

【救急外来】
 ストレッチャーに乗せられ、救急外来の入り口から中に入る。入るとそこはすぐに手術ができる病床で、ドラマでよく見る救命救急センターの中と同じだった。病床と外の世界はスライド式の扉1枚だけで仕切られている。土間みたい。 外から自動ドア開いて入ったらもうオペするところなんだ、とぼんやりびっくりした記憶がある。ストレッチャーからベットに移される時、いえ大丈夫自分で動けます、と自分で移動。だって体は動くのだから。 ぼんやりして多少まだ呼吸が荒くて膜が張ったような感じが消えないけれど、でも歩けと言われたら歩ける状態だったと思う。ベットに移り、視界には天井が丸く映る。 この丸い視野の右から左から看護師が入れ替わりいろんな質問をしてくる。救急隊員に聞かれたこととほぼ同じだったような記憶。看護師は皆とても若かった。お兄さんの1人は医療用の帽子の隙間から茶髪が見えていた。 インターン?大学生?とぼんやり思いつつ、でも皆総じて優しい。当たり前か。ぼんやりしているこちらはあきらかに様子がおかしいのだから。そんなこんなでいろんな質問にぼんやり必死で答え続けている間にいつのまにか左手に点滴が刺さっていた。 たぶんこの間に採血もされている。後で自分がされたことを教えてくれた。指を前にだされ動かされ見えるか見えないか、質問を受ける。指は何本か?見える、ような見えない、ような、微妙な位置に置かれ、 1,2本かな?3,4本くらいな感じですとか答えていたら、指は何本に見える?と目の前に置かれ、それには1本だと自信を持って答えた。でも人間、周辺視野だと指の数なんてぼんやりするでしょ、でもこちらは頭もぼんやり混乱しているから、はっきり数を答えられないとあせる。 あれ自分おかしいのかなと。あと、右に指を動かされそれがかなり右にいくと気持ち悪くなり目をつぶってしまうこと発見。これもあせった。脳か何かに異常が?と。 左はそうでもない、右が気持ち悪くなる。これ、健康に戻ったらもう一度試してみよう。これはぼんやりながらもとても焦った。 そうこうするうちに真打ちの先生がやってきた。この人もお兄さん。先生からもやはりだいたい同じ質問を受ける。必死で症状の一つ一つを挙げ、どれが一番きついかと問われ、うーんと悩む、自分でもよくわからないのだ。 よくわからないのは、ぼんやりしていることと、そして振り返ると症状に波があり、それが病院でも続いていたからだ。これは治ったかな、と思ってた症状がまた現れたり、ほんとよくわからなかった。 たぶん、たくさん、よくわからないと答えていたと思う。正直に。うまく伝わってくれていたらいいのだが。眼振もちょっとあるね、と言われまた動揺。先生は血液検査の結果がもうすぐ出る、ちょっと待ってね、と。 でもいまこう話している間もずっとバイタルとかチェックしてるけどでも特に気になることはない、と。それを聞いてすごく安心した記憶。自分の状態が自分でよくわかっていないから、そう言ってくれてとても安心だった。 血液検査の結果を待つ間に我慢していたトイレに行かせてもらうことに。車輪のついた点滴台を初めて押しながらトイレに行った。そして戻る。まあいつもの感じではないが、やはり歩くことはできる。 これは最初から一貫してそう、体は動くのだ。ベットに戻り、先生が再びやってきた。血液検査結果には特に異常は見られない、トイレに歩く様子も見ていたが歩けるようだし、 なんだろう、こうだ、という診断名はつけられない。と言われた。それを聞いてまず血液検査結果が正常であることにすごく安心した記憶。 この辺りは症状もだいぶ改善してきて、こちらから質問もできていた記憶。熱中症やパニック症候群の可能性は?とずっと気になっていたことを聞くと、 うんその可能性もゼロじゃない、とにべもない返事。軽い脳梗塞の可能性もなくはない。精神科的なところは自分は専門外なのでわからないが、と。 入院するかこのまま家に帰るか聞かれ、帰りたいと答える。調子はまだいつものようにはもどってこず不安はあったが、とりあえず帰りたかった。 先生は、こういう結果だからこちらとしては強く入院を勧めるものではない、でも、このまま一人帰すのも不安、来れないにしても家族にちゃんと電話してね(これは救急車内で救急隊員にも言われ、しかしサイレンが鳴り響く中で家族に急に電話したら驚かせるし、、しかしそうしてと強く言われ仕方なく電話。でも応話にならなかったことを良いことにLINEでは救急車で、とは伝えず、ちょっと病院に行ってくる以外は書かなかったのだが)と言われ、はいそうします、と素直に答える。 あと自宅に戻って症状続くようならかかりつけ医にもう一度見てもらって、と。はいそうしますとこれにも素直に答える。そして、帰ってよしと許可が出る。 しかしいざ帰るとなると、やはり不安。歩くのもちょっとまだふらつく。ぼんやり感も消えない。バイクのこともある。これからどうしようか。ぼんやりしているから考えにくくて困っていた。

【レッカー】
 とりあえず高田城の方角へと、身体の様子を見ながら歩いているとまず川に出たので、河川敷で家族と保険会社に電話。保険会社からは、折り返すと言われ、折り返しを待つ。 そして結果、今回のレッカーに保険はおりない、上記の値段となる、どうするか?と聞かれ、やはりここでもぼんやりなのでうまく決められない。 泊まるか帰るか、泊まるとして宿はあるのかないのか、帰るとして新幹線時間は?そもそも最寄りの新幹線駅な何駅でそこまでどのくらいかかるのか、 バイクのカギはNEXCOが預かれないということだったので持ってきているのだが、カギはレッカー時に必要ないのかあるのか、明日の体調はどうなのか、体調は戻るなら多少でもレッカーが安く済むように下道でだが少しでも東京に近づいておこうか、とか。 でも体調はこの時点でもはっきりしない。よくはない。ぼんやり感は残る。明日も変わらないなら下道も厳しい。このぼんやり頭で決めることが多すぎてどうするか身動きが取れなくなった。 高田城の公園のベンチに座り、はっきりしないたくさんのことを少しでも整理するために色々ググり始める。まず最寄りの新幹線駅はどこか?これは上越妙高駅だった。ここから3km歩いて45分と出てる。 いつもなら余裕だし喜んで歩くのだが、いまは無理。するとタクシーか。いやその前に時間は?20時10分がどうやら最後。今は19時。タクシーで向かえば余裕で間に合う。 さて、一方でレッカーはどうか?鍵は自分が持ってるが?渡すべきか?渡さないと追加費用がかかるのか?そしてバイクを少しでも東京に近づけてレッカー代を浮かせたいという希望も捨てきれない。 明日ならバイク乗れるか?いや難しいか?乗れそうでも、結局今日のようになってしまう可能性が高そう。まずはレッカーの会社と相談を、ということで保険屋に紹介されたオダギリ車体という会社に電話をする。 いや電話がきたのかも。向こうの人曰くやはりバイクのカギがほしいと。しかしNEXCO職員に断られ、カギはいま手元にある旨伝える。いまどこだ?と。上越高田にいる。 丁度うちの職員がいまそっちで作業しているからカギを渡せないか?いや渡したいのはやまやまなのだが、こちらもちょっとこの後の行動を決めかねている、泊まるか新幹線で帰るか、宿泊場所は探したが空きが見つからない、新幹線だともう移動しないと間に合わない、しかしちょっとぼんやりしてて思考がまとまらない、どうしてほしいか。 すぐ折り返すと切られ再び電話がきた。うちの職員と一緒に長野にこないか?こっちで宿探してみる、と。ぼんやりしてて決めかねるので最終的にはもう任せる、と答える。 また折り返しあり、ホテルはあった、しかしGW料金で2万円だ、と。もう既に思考停止なのにこれ以上選択肢が増えてもどうしていいかわからない。高すぎて悩むが、でももうどうしようもない、その話に乗る。 高田公園前のスタバでレッカー車と待ち合わせ拾ってもらい長野へ。と思っていたら、そのままバイクをレッカーで運ぶとのこと。高速に乗り上越妙高ICへ。 スタッフのおじさんは気の良い人で助かったが、しかしあまり調子がよくない中話しかけられるのは時に苦痛だった。そのおじさんは今日は岐阜と志賀高原、そしてここ上越、そして最後におれと、一日中レッカーで走り回っていたそうな。 やはりGWは事故の類が多いのだろう、大変な仕事だ。そんな話を聴きながらレッカー車は高速のICへ。レッカー車でも高速に乗ることに不安を覚えた。でもいざ高速に入っても若干の気持ち悪さはありつつも大丈夫で、一安心。 やはりバイクなのか、自分が運転するという状況なのか、症状の誘発原因は。精神的なものだとしたら、もうバイクに乗れない、困った。そんなこんなぼんやり考えていると、昼間緊急停止した路肩や横になっていた待避スペースを通り過ぎる。 嫌な記憶だ。そして妙高高原ICに到着、料金所を通過してすぐのNEXCO駐車場に到着。おれのバイクがある。レッカー車に乗せられ固定される間、朝食以降初めてのコンビニおにぎりを食べる。そうはらは減っていないが体調が不安、栄養を摂る。 そして再び高速に乗り、長野へ。この間、明日の新幹線の予約とホテルから駅までのシャトルバスの予約をする。上越から長野は7,80キロほど。電話などしていたら結構すぐに着いた。 時間は22時前くらいだったか。この辺りはぼんやりもようやく抜けてきた感覚があり、安心感が増す。オダギリ車体もホテルもインター降りてすぐだった。 ホテルはダイワロイヤルホテル。2万円もする11階の広々したツイン。昨晩は3千円の狭いソファベット。皮肉なものだ。外の景色はよさそうだが眺める気も起きず、シャワー浴びて、そしてこの記録を書く。 この一件で18万ほどの代償を負ったのだ。救急車もレッカーも初めてだし、18万払って救急車レッカー体験型アトラクションという貴重な経験をした、とでも思い込まないと惨めでなきそうになる。 まあ貴重な経験だった。それにしても、バイク。どうなのだろう。少なくとももう、高速に乗る勇気はない。パニックや適応系なら再び起こる可能性大。そんなリスクは負えないし、何よりもう怖い。 車検はあと1年半残ってる。下道なら問題ないだろうから、このまま維持するか、それともここできっぱり売却し引退にするか。売れば多少は今回の出費の補填にはなるかも。 友人は任意保険をこの春延長してくれた。そんな矢先のこの事態。申し訳ない気持ち。売るにしても、一度相談しないと。 それにしても自信を失った。体力にはそこそこの自信はあったのだが。44歳、体も変化してきているのか、やはりずっと同じままではいられないのか。そりゃそうだが。今のところパニック障害の疑いが一番濃厚。 ネットで調べた症状の全てが当てはまる。死ぬかも、の項目は、ほんとこれそうなってみないとわからない。ほんと死ぬかもと思った。 今日は、高速で、NEXCOのベンチで、救急車で、すーっと意識が遠のくことがあり、死がちらついた。ずっと先と思っていたが、死ぬって身近にあると実感。教訓。 教訓にして何かを得ないと今回の件はほんと惨めで終わる。そうならないようにしたいものだ。

【臨時出費】
・救急車費用 0円
・救急外来費用(後日請求) 6000円
・レッカー代 15万程度※
  12万(1km400円+税×300km)
  1万(作業代)
  2万(高速代)
  ?円(二人以上の場合の人件費)
・ホテル代 2万円
・新幹線代 8000円
※レッカー代は結局、オダギリさんに長野まで運んでもらった費用で4,5万、YSPに長野から運んでもらった費用で6万、合わせて11万程度。

【レッカーと保険について】
保険でレッカー移動をしてもらうには、車両故障であることが大前提。正確に言えば、車両故障ではなくとも、依頼の電話で車両故障であると伝えること。これが一番の教訓。 YSPから他の保険会社の事例をいくつか聞いた。結果故障じゃないとして、故障の可能性があった場合のレッカー移動には保険が降りている。レッカー車に乗せる際にエンジンがかかるか、などの点検はない。あっても車体の歪みなど可能性のある故障を現場で判断できるわけがない。当然、故障の疑いならレッカー移動せざるを得なくなる。結果異常がないとしても、これと同じケースで保険は降りている。
自分の場合は結局、保険は降りなかった。電話で自ら「故障ではない」と言ってしまったから。
あいおいへの確認事項
Q1 あいおいでは故障の可能性では保険は降りない、ということでよいのか?つまりは故障しているという客観的な事実を確認できた上でないと保険はおろさない、という仕組みだということで間違いはないか?
Q2 故障の可能性が無い等、レッカー移動時に運転手に判断などできるものではない。あいおいさんでは必ずレッカー会社のスタッフに異常が見つかるまで確認した上でレッカーで運ぶことにしているのか?(異常があるという持ち主の情報だけでは判断しない体制を敷いていてそれを確実に遂行している、ということで間違いはないか?)
→A1 故障でなければ保険でレッカー代は出さないが、故障であるという電話であれば、おそらく運んでくれるし、修理後の状況をわざわざ整備場等に保険屋は確認しないのではないか?(yspの見解)
→A2 レッカー移動時にスタッフが故障個所の正確な確認をすることはできない。そういう体制は敷いていない。

こちらの言い分
「運転中、異常を感じた。 真っ直ぐ走れない、倒れそうな感覚。アクセルを回してもエンジンが上がらない感覚。(これは保険屋用のストーリー) パニックでぼんやりしていたため、異常の原因がはっきりしないままにレッカー依頼の電話をした。そのやりとりは意識が終始ぼんやりとした状態だったため、詳細は覚えていないが、原因は体調にある旨を伝えた記憶がある。(事実確認能力がない状態での情報である)。 でもそうではない。その時点では原因はわかっていなかった。つまりは異常が先かパニックが先か、車体異常から誘発されたパニックだった可能性もあるということ。 高速の路肩に緊急停止し、高速警察にサポートを受けながら低速で次のインターまで移動した。車体が真っ直ぐ走れる状態ではないのか、自分が原因なのか、この時点で何もはっきりしていない。 トラブルによるパニックからか、その日は終始ぼんやり雲がかかったような状態だった。そんな不明瞭な状態で「バイクに問題はない」と自分が仮に言っていたとして、そうした入口でレッカーを依頼をしたことが、保険が効かない理由なのであれば、保険料を払い続けたいる身としては納得できない。その時の入口が「車両故障の可能性」と伝えていれば降りた保険なのであれば、それは適用していただきたい。」

あいおい保険から返答
結論、入電時にバイクの故障ではないとはっきり伝えた記録があることから、それにおいて保険適用外となる。後学のため書き記しておくと、もし入電時の連絡内容がバイクの故障の可能性があると言う内容の連絡であれば保険は適用された、とはっきりと保険屋から言われた。
ちなみにレッカー移動後自分でバイクの点検をし結果故障が見つかった場合は、その時は請求書等を郵送するなどが必要だが、後から保険適用となる可能性もある。

捨てる神あれば拾う神あり!
YspのWさんに連絡。その後の経過を伝えた。Yさんはほんとにいい人、しばらく考え込んだ後自分かスタッフが長野インターまでバイクを引き取りに行っても良いと申し出てくれた。保険が効かない状態でオダギリ車体にお願いすると、1キロ400円 500円のため長野から東京まで200キロ、つまり100,000円程度の費用がかかるが、うちならもう少し安く行けますよ。そのありがたい申し出を受け、YSPのWさんにバイクの移動をお願いすることにした。Wさんほんと神。5万程度ということはおそらくほぼ実費だけでは。高速代往復で5000×2、ガソリン40lで8000程度か、ほぼ儲けはない。しかもWさんがいってくれるらしい。ありがとうWさん。
思えば今回は惨めな出来事だったが、皆やさしかった。高速警察のお兄さん2人、妙高高原ICのNEXCOのおじさん、救急車の3人のお兄さん、新潟県立中央病院の先生や看護師さん、保険のオペレーター、オダギリ車体で宿も探してくれたスタッフ、そして最後にyspのWさん。人生最大のピンチに人のやさしさが骨身に染みた。本当にありがたかった。自分もピンチに陥っている人には特にやさしくありたい。
今後は、パニック発作や障害、適応障害などについて、悩む人により親身に寄り添える気がする。ほんとどうしようもない状況に陥ることを身をもって知ったから。そんなこんなの体験費用や勉強代だと思おう。この臨時出費は。

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