高遠城

Basic information
name高遠城
another name兜山城
selected100名城 30
location長野県伊那市高遠町東高遠

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Photo

大手門の石垣 桜雲橋と問屋門 紅葉

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八ヶ岳パーキング 駐車場(勘助曲輪) マンホール 移築門 大手門の石垣 大手門の遺構 高遠町の遠景 石垣の上の新築家屋 進徳館 進徳館 城址公園北ゲート 高遠閣 桜雲橋と問屋門 桜雲橋と問屋門 紅葉 問屋門 問屋門 城址公園からの景色 太鼓櫓 アメリカセンダングサ?

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Data




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Record

攻城日時

2019年10月26日

攻城手段

SR400

攻城記録

 長野県の100名城の5つのうち一つ、高遠城。別名兜山城。織田軍に攻め落とされた、武田氏滅亡の象徴的な城。

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 高遠は古くから諏訪氏の勢力圏にあり、14世紀の南北朝時代の頃は諏訪氏の支族である高遠氏が治めていた。戦国時代は高遠頼継の居城。1545年に甲斐の武田信玄が攻め、以後武田氏の伊那への進出拠点となる。山本勘助や秋山虎繁が強固な城に改修したという説もあり。武田氏の高遠支配は35年間続いた。高遠城は南信州支配の重要な拠点として重視されていたため、城主には諏訪(武田)勝頼ら近親者が就いた。そして、信玄の次男(勝頼の弟)仁科盛信が城主となり、織田の武田攻めを迎えた。30000人の織田信忠に対して、3000人の武田方仁科盛信は壮絶な戦いの末、攻め落とされる。
 江戸時代になり、1631年(寛永8年)に高遠藩主となった保科正之は、徳川秀忠の子。ちなみに保科正之は、高遠→最上(山形)→会津と移封し、会津松平家の藩祖となった。血が繋がっているかは定かではないが、松平容保の祖先、ということか。

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 さて、高遠城。本来は東京から松本城に直行する予定だったのだが、地図を改めて見ると、高遠城にも行けそうな距離であった。友と相談の上予定を変更。八ヶ岳Pで休憩し(この時点で東京から140キロ程度)、そこから60キロ1時間程度走り、諏訪ICから降りる。ちなみに、八ヶ岳Pから少し北上したところが1050mの中央道最高地点。フル装備に近かったのにも関わらず、寒い。諏訪ICを降りて30分程度。高遠城も標高800mの高所にある。やはり寒い。9時に到着。高遠町は昔から続く石工の町らしく、大手門から町を一望するとほとんどの建物の土台は石。現代の石工が匠の技を受け継いでいる、と出会ったおばあさんに教えてもらった。そう言われてみれば、道中にあった新しい建築中の家も、石垣の上に施工していた。

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 駐車場は勘助曲輪だったか?既に曲輪内。駐車場からスタート、まずは藩校の「進徳館」を見学。1860年代と時代は違うが、茅葺き屋根が印象的で見所の多い名所であった。その後、城址公園を北ゲートから入り、二の丸へと進む。有名な「桜雲橋」と「問屋門」をくぐり本丸へ。太鼓櫓なども見学。曲輪など、全体的に遺構は整備されてて分かりやすく、楽しませてもらった。桜の時期はかなり賑わうのであろう。ちなみに城址公園は入場無料。季節によっては入場料を取るのだろうか。10時30分、松本城へ向けて出発。

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today's ramen

フードコート(八ヶ岳パーキング)しょうゆラーメン 850円



impressions

 ごく普通のラーメン。心なしか油が多く、長距離移動で舌まで凍えたか、あまりおいしく感じない。とにかく冷えた体を温めることが目的で、味は度外視。 



ラーメンの写真
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