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Data
- 築城年: 不明 ※1547年(天文16年)に修改築?
- 廃城年: 1872年(明治5年)
- 城郭タイプ: 平山城(環郭式)
- 天守タイプ: なし
- 天守の縄張り: −
- 築城主: 不明 武田信玄
- 主な城主: 高遠氏 秋山氏 武田氏(仁科氏) 保科氏 毛利氏 京極氏 鳥居氏 内藤氏など
- 関係する武将: 武田信玄、織田信忠、仁科盛信(武田勝頼の弟)
- 主な遺構: 石垣 土塁 空堀 門
- 主な石垣のタイプ:
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Record
攻城日時
攻城手段
攻城記録
長野県の100名城の5つのうち一つ、高遠城。別名兜山城。織田軍に攻め落とされた、武田氏滅亡の象徴的な城。
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高遠は古くから諏訪氏の勢力圏にあり、14世紀の南北朝時代の頃は諏訪氏の支族である高遠氏が治めていた。戦国時代は高遠頼継の居城。1545年に甲斐の武田信玄が攻め、以後武田氏の伊那への進出拠点となる。山本勘助や秋山虎繁が強固な城に改修したという説もあり。武田氏の高遠支配は35年間続いた。高遠城は南信州支配の重要な拠点として重視されていたため、城主には諏訪(武田)勝頼ら近親者が就いた。そして、信玄の次男(勝頼の弟)仁科盛信が城主となり、織田の武田攻めを迎えた。30000人の織田信忠に対して、3000人の武田方仁科盛信は壮絶な戦いの末、攻め落とされる。
江戸時代になり、1631年(寛永8年)に高遠藩主となった保科正之は、徳川秀忠の子。ちなみに保科正之は、高遠→最上(山形)→会津と移封し、会津松平家の藩祖となった。血が繋がっているかは定かではないが、松平容保の祖先、ということか。
さて、高遠城。本来は東京から松本城に直行する予定だったのだが、地図を改めて見ると、高遠城にも行けそうな距離であった。友と相談の上予定を変更。八ヶ岳Pで休憩し(この時点で東京から140キロ程度)、そこから60キロ1時間程度走り、諏訪ICから降りる。ちなみに、八ヶ岳Pから少し北上したところが1050mの中央道最高地点。フル装備に近かったのにも関わらず、寒い。諏訪ICを降りて30分程度。高遠城も標高800mの高所にある。やはり寒い。9時に到着。高遠町は昔から続く石工の町らしく、大手門から町を一望するとほとんどの建物の土台は石。現代の石工が匠の技を受け継いでいる、と出会ったおばあさんに教えてもらった。そう言われてみれば、道中にあった新しい建築中の家も、石垣の上に施工していた。
▼read more!駐車場は勘助曲輪だったか?既に曲輪内。駐車場からスタート、まずは藩校の「進徳館」を見学。1860年代と時代は違うが、茅葺き屋根が印象的で見所の多い名所であった。その後、城址公園を北ゲートから入り、二の丸へと進む。有名な「桜雲橋」と「問屋門」をくぐり本丸へ。太鼓櫓なども見学。曲輪など、全体的に遺構は整備されてて分かりやすく、楽しませてもらった。桜の時期はかなり賑わうのであろう。ちなみに城址公園は入場無料。季節によっては入場料を取るのだろうか。10時30分、松本城へ向けて出発。
▲close!today's ramen
impressions
ごく普通のラーメン。心なしか油が多く、長距離移動で舌まで凍えたか、あまりおいしく感じない。とにかく冷えた体を温めることが目的で、味は度外視。