龍岡城

Basic information
name龍岡城
another name龍岡五稜郭
selected続100名城 129
location長野県佐久市田口

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Photo

龍岡城前 御台所 星の角

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看板 龍岡城 龍岡城前 水堀 田口小学校校庭 御台所 御台所 田口小学校校舎 校舎の中庭 星の角 星の角 五稜郭であいの館

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Data




Map




Record

攻城日時

2019年10月27日

攻城手段

SR400

攻城記録

 長野県の続100名城の一つ、龍岡城。函館五稜郭とともに、日本に2つしかない星型の稜堡式、洋式城郭。

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 この城を築いたのは、大給松平氏最後の藩主、松平乗謨。乗謨は、江戸幕府の鎖国政策による著しい軍備の立ち遅れに国家存亡の危機を憂い、自らもそして家臣にも洋学の勉強を奨励。海防に重きを置き始めた幕府も、江戸や大阪湾のお台場、松前戸切地陣屋(ヘキリチ)・函館五稜郭など、続々の様式の築城技術を取り入れていた。乗謨もこれに刺激を受ける。参勤交代制の緩和により家臣の在国期間が長くなり、また領地の三河が4千石と狭く、1863年(文久3年)に信州領1万2千石に本領移転を願い出る。そして新陣屋五稜郭の築城も合わせて願い出て、許可を得る。※大給松平氏は代々「陣屋格」で城を持つ資格がなく、天守閣や櫓などの防備施設を作ることができなかった。明治6年の取り壊しまで、結局未完成で終わった。崩壊間際の幕府において、乗謨は老中格、陸軍総裁などの要職についており、築城に関わるヒマがなかったのでは、と言われている。廃城後の龍岡五稜郭は、御殿の一部「御台所」だけは取り壊しを免れ、学校としての使用が認められた。御台所は貴重な遺構。校舎として長く使用されたようだ。
 五稜郭の一番の難工事は石垣だったらしい。当時、高遠藩が洋式築城石工を積極的に養成し方々へ派遣していたそうで、それを招き入れ3年かけて建設した。石垣の石は、周辺の山の溶結凝灰岩(佐久石)を使用。石垣工事の工程は、まず根石の下を厚さ1mの粘土で叩き固めて基礎を作る。これは砲撃や地震などを想定し緩衝機能を持たせることと、地下水による基礎の浸食と陥没を防ぐため。石積みの裏込めには、栗石と十分な粘土を使用したはがね巻き工法が取られた。次に、石垣の接合。接合面を成形し石同士を密着させて積む、切込み剥ぎを採用。また、見栄えが美しい布積みの他、一部六角形の亀甲積も用いている。

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 さて、龍岡城。Googleマップでは小諸城から19キロ39分と出ていたが、下道で45分くらいだっただろうか。看板など直前まで何もなく、急に桝形門が出てきて驚いた。龍岡城は、1864年築の星型陵堡式近世城郭。水堀の石垣も切り込み剥ぎの布積みで、技術が上がった近世の作りであることがわかる。五稜郭内は現在、田口小学校とその校庭となっている。御台所という遺構があるのみで特別な説明板などはない。「五稜郭であいの館」という案内所内には、模型やら展示パネルなどが多少あるが、そこは早々に閉まっていた。

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 16時閉館の5分前なのに。おばちゃんたちはまだ中にいてテーブルに座って雑談している。やる気がない。仕方なく歩いて、実地見聞。狭い水堀の角々で星型が想像できるが、ドローンでもない限り星の形を目視することはできない。これまた台風19号の影響で、危険なため近くの山にも登れず見下ろすことができなかった。何にせよ、函館と龍岡と日本で2つしかない星型陵堡式ということは貴重。龍岡城で今回のバイクで城攻めは完遂。2日間で計6城。やり切った。17時、東京に向けて出発。関越の方が近かったが、下道で野辺山、清里を越えて中央道の長坂ICへ。清里辺りが極寒すぎて、高速入ったらぬるかったくらい。中央道はご多分にもれず渋滞。とても疲れた。しかし満足。

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today's ramen

ジョナサン (甲州街道仙川店) 酸辣湯麺 900円



impressions

 信州6城攻めを終え帰京。中央道の渋滞もすり抜けて、22時30分頃に到着。とにかくファミレスに入る。ラーメンとは考えていなかったが、温まりたいことと、体が酢を欲していて注文。安定のうまさ。



酸辣湯麺
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