宇和島城

Basic information
name宇和島城
another name丸串城 板島城 鶴島城
selected100名城 83
location愛媛県宇和島市丸之内

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Data




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Record

攻城日時

2019年12月21日

攻城手段

JR特急宇和海→徒歩

攻城記録

 愛媛の100名城5つのうち1つ、宇和島城。築城の名手、藤堂高虎の築城。初代藩主は伊達政宗の長男、伊達秀宗。秀宗は、伊達政宗の長男でありながら側室の子どもであったために仙台藩の家督を継ぐことはできず、宇和島へきた。

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 鎌倉時代の1236年、西園寺公経が宇和島周辺を支配し砦(板島丸串城)を築いた。1584年、西園寺氏は長曾我部元親に攻められ降伏する。1585年、豊臣秀吉の四国攻めの頃には、湯築城主小早川隆景の支城となる。1587年、小早川隆景が筑前に転封、大洲城主戸田勝隆(豊臣家古参)の支配下となる。しかし朝鮮出兵にて戸田勝隆は病死、跡取りがおらず改易。代わって1595年、藤堂高虎が宇和島周辺7万石で入封。高虎は1596年から板島丸串城を大改修。1601年に完成し、名を宇和島城と改めた。藤堂高虎は関ケ原の戦いで大谷吉継を破るなど武功を挙げ、宇和島城の完成と同時に伊予20万石に転封。1614年、伊達政宗の側室の息子、伊達秀宗が10万石で入封。宇和島藩初代藩主は、この伊達秀宗。伊達秀宗は伊達政宗の長男でありながら側室の子どもであったために、秀宗に仙台藩の家督を継がせることができなかった。※仙台藩は正室の次男伊達忠宗が継ぐ。そこで伊達政宗は、1615年大坂の陣の軍功で加増された宇和島10万石を、秀宗に与えた。余談だが、初代秀宗の正室亀姫は、井伊直政の娘。また2代宗利の娘豊姫は、松代藩3代真田幸道の正室となる。トップ同士の政略結婚スクランブル。DNAのシャッフル。

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 さて、四国2日目、本日2城目の宇和島城。特急で大洲から30分、1500円。山並みからたまに顔を覗かせる車窓の宇和海を眺めつつ、アンパンマン電車は進み、予讃線の終着駅、宇和島駅に到着。宇和島が近づくとアンパンマンが気をつけてね!いってらっしゃいと車内放送で見送ってくれた。

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 友人と駅前で合流。荷物をホテルに置いて城へ出発。歩いて15分ほどだろうか。桑折氏武家長屋門から城郭に入る。入るとすぐ正面に、左方向へ延びる石垣の階段の側面が迫る。入ってきた向きにはほぼ進めず、左へ右へと階段を登りその位置を上昇しなければならないような動線。古く苔生し、雰囲気のある石段が続く。石段を登っている時の印象は、観音寺城と安土城の折衷な感じ。石段も一段一段が高いところもあり、歩きやすいわけではない。それでも200m、15分程度で天守に到着。
 天守はそう大きいわけではないが、やはり現存天守、風合いというか醸し出す雰囲気がとてもよい。屋根瓦も程よく古びていて、灰色の空の下、淡い灰色の宇和島城がよく似合っていた。振り返ると遥か遠くに宇和島湾、宇和海が見える。天守入口には正月用の門松が見える。、、。これは要らない。本当にやめてほしい。例えるなら、クリスマスだから良かれと思ってモナリザの頭にサンタ帽子のシールを貼った、みたいな。それだけで完全だったのに、不要なものを足して崩れた、みたいな。全国的に見てもこんな例はたくさんあり、それを見て華やいだ気持ちになる方、季節を感じる方もいるだろうことは理解できる。しかし、現存の12天守くらいは控えてもらいたい。そのまんまを見たい。、、個人的な意見だが。
 天守入口には、まず石垣を登らなければならない。入口の破風には伊達家の家紋、「堅三引両紋」が大きく配置されている。中に入り、天守最上階まで進む。現存のため天守への急な階段はお約束のようにもちろんあるのだが、材が全体的にそこまで古い感じがない。大改修で入れ替えた割合が大きいのだろうか。最上部も天井が普通の板張り、平面になっている。現存でよく目にする最上部の剥き出しの材や神棚のようなものはなかった。これは伊予松山城も同様。不思議。宇和島城は回縁やら高欄はないが、天守の窓から四方を見晴らすことができる。東側は宇和島湾、南北西は山並みに囲まれている。景色がよい。遠く仙台からやってきた秀宗も、この景色をみてこの地を気に入ってくれたのではないだろうか。またこの宇和島城、武者窓がおもしろい。手前が角二つの六角形で、外側が角一つの三角形。華頭窓も火灯窓という漢字が当てられている。
 天守を出て、同じく城郭内の郷土館へ。郷土館はもと米倉?だそうな。天守と同じく立派な石垣の上に建っている。入場無料。中に入る。映像で宇和島伊達家を詳しく紹介してくれる。初代秀宗は、宇和島の地に家臣57騎でやってきたそうだ。慶長25年、秀宗25歳の時。父伊達政宗から息子への手紙も紹介されていた。家康秀忠の命に真摯に従うこと、民を大事にすることなど、遠く四国の地に入封した息子への手紙には、心配する父親の親心が見て取れた。当たり前だが、堅三引両紋(たてみつびきりょうもん)がやけに目につく。その他、幕末の四賢侯の1人、宇和島藩第8代伊達宗城も紹介されていた。当時かなり評価の高い人物だったようだ。あの西郷隆盛も京都で行う四賢侯会議に参列してもらうため宇和島を訪れ宗城と面会している。宗城は早くから外国に目を向けて動いたり、高野長英を匿ったりと、活躍。またアーネスト佐藤は、大名階級の中でも1番の知恵者だと宗城のことを書き残している。
 さて、その後、友の希望で高校野球で有名な宇和島東高校のグランドを大回りした上で、天赦園へ。天赦園は立派な大名庭園だが、なにしろ人が1人もいない。本日は土曜日なのにもかかわらず、趣きある広い庭園がほぼ貸切であった。宇和島に来たときには暖かく感じた気候も、この辺りから少し肌寒く感じてくる。その後、伊達博物館へ。博物館前には伊達宗城の像が立つ。博物館はその名の通り、伊達に特化した博物館。薄暗い照明で吹き抜け的に3階まである構造で、そこそこ広い。参勤交代特集をやっていた。第4代村年の1722年の初参勤交代時の様子などを紹介していた。仙台からは380km8日間、宇和島からは1024km30日間。仙台とはいかに江戸に近いかを思う。当時の大名が参勤するための資金調達や長い移動にいかに苦労したか、村年の最後は参勤途中の加古川付近で亡くなった。死に目を故郷で迎えることもままならない。伊達博物館を出て16時30分、ホテルへと帰る。これにて2日目の攻城が終了。2城ともに見応えがあり、満足。宇和島自体は、故郷昭和の仙台のよう。人が少なく、特に若者に滅多に出くわさない印象。宇和島に観光に来ることは今後そうないだろう。死ぬまで二度と来ないかも、というよりこないだろう。そう思うと、とても名残惜しく後ろ髪を引かれる思いで、ライトアップされた宇和島城をホテルの窓から眺める。

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today's ramen

『郷土料理大衆割烹 ほづみ亭』 (宇和島駅) 太刀魚竹巻 900円 等々



impressions

 ホテルのスタッフおすすめの料理屋。太刀魚の竹巻き、はらんぼちぎり揚げ、宇和島さつまめし、亀の手など、宇和島の名物を一頻り戴く。
 どれもとてもうまい。太刀魚は竹筒にきれいに巻かれウナギの蒲焼のような甘ダレで焼かれた逸品。出ない日もあるそうでラッキーだった。さつまめしは一見とろろのようで、白身魚のすり身の不思議なごはん。はらんぼちぎり揚げは、揚げずに焼いたジャコ揚げみたいな料理。ジャコ揚げの他に鬼ジャコ揚げというメニューもあり違いを聞いてみる。店のおばちゃん曰く、ジャコ揚げの「少し大きくてちょっといい版、、みたいな感じ。」だそう。どれを聞いてもすっきりした回答が返ってこないところがまた、遠く異国に来たようで、よかった、かな。



店の外観 太刀魚竹巻 カメの手
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