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Data
- 築城年: 1162年(応保2年) 1580年(天正8年)
- 廃城年: 1873年(明治6年)
- 城郭タイプ: 平山城(輪郭式)
- 天守タイプ: 不明 ※5層6階? 非現存
- 築城主: 郡山衆、および、筒井順慶
- 主な城主: 筒井氏、豊臣氏、水野氏、柳沢氏
- 関係する武将: 筒井順慶
- 主な遺構: 石垣、堀
- 主な石垣のタイプ:
Map
Record
攻城日時
攻城手段
攻城記録
奈良県の続100名城、大和郡山城。1576年(天正4年)、筒井順慶が織田信長の命令、後ろ盾のもと、村々に発生した地侍を次々に支配下に置き、大和を統一。1580年(天正8年)、筒井順慶は郡山に入城。大和国唯一の城郭として築城を開始する。
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ちなみに筒井順慶。1582年(天正10年)の本能寺の変で、親しかった明智光秀から洞ヶ峠出兵を促されるが日和見を決め込む。このことから、旗色の良い方につくことを、悪い意味で、洞ヶ峠を決め込む、というようになった。
さて、信長亡き後、秀吉の弟、豊臣秀長は筒井氏の後を引き継ぎ、1585年(天正13年)に大和郡山城に入城。大阪城の防衛を目的として、大和支配を確立する。最新の発掘調査では豊臣時代に天守閣も築城したことがわかってきた。秀長は刀狩りや検地を実施し、多武峰や興福寺などの寺社の権力を弱め、また奈良の商業に弾圧や制限を加え、郡山城下を政治経済の中心とした。秀長は秀吉の名参謀として力を持ち、この時は大和、和泉、紀伊の3国の100万石を有していた。しかし秀長は51歳で死去、治世は6年ほどであった。秀長の後は、五奉行の増田長盛、関ヶ原後は、水野氏、松平市、本多氏など目まぐるしく領主が変わった。1595年(文禄4年)に入城した増田長盛は外堀普請をし、それは現在まで良好な形で残っている。そして、江戸時代。郡山のさらなる繁栄を築いたのは柳沢吉保の長男、柳沢吉里。1724年(享保9年)甲府城の城主だった吉里は、徳川吉宗の命を受け、大和、近江、河内、伊勢の4国を有した。養蚕や金魚の養殖など産業の発展にも力を注いだ。柳沢氏治世のまま明治維新を迎える。
さて、大和郡山城。本日3城予定の最後、3城目。壺阪山駅から出発し、15時48分近鉄郡山着。徒歩で郡山城に向かう。郡山駅はJRと近鉄と二つあるが、近鉄の方は郡山城に近い。途中、永慶寺を通り、移築されて唯一残っている郡山城の南御門を見学。歩くこと駅から10分くらいか、郡山城に到着。増田長盛が普請した外堀がよく残っており、水堀と立派な石垣と夕暮れの構図が美しい。まずは柳沢文庫へ。
▼read more!柳沢文庫は柳沢氏の文物を保存する資料館。スタンプもここで押印。平成25年からの天守台修繕に伴う発掘調査の速報もやっていておもしろい。次に天守台へ。時間はまだ16時半。夕暮れだがまだ明るい。堂々と天守台が佇む。郡山城の石垣には転用石が多用されている。天守台裏にある逆さ地蔵も回り込んで見学、手を合わせる。転用石は、石仏、墓石、石塔、五輪塔、石臼などかなりの数にのぼる。発掘されていない裏込石も合わせれば、その数はさらにかなりのものらしい。天正年間の年号など刻印されているものもあるそうだ。戦の絶えない時代で使えるものは何でも城普請に転用する。信仰の対象であったものでさえ構わずに利用するという、当時の凄まじさを物語っている。天守台の角石は二つ重ねるとぴったり合うものもあるらしい。大きな石を二つに割ったものをそのまま近くの角石として使っているのは珍しい。夕暮れの中、天守台に登る。階段は明治時代に後付けされたもので、当時は階段などなく、付櫓があり、絵図には入口らしい書き方も見られるという。天守台に登り四方を見渡す。夕暮れ時のオレンジ色の郡山市街がきれいだ。天守台上部には、礎石跡のマークもつけられている。時間は17時。本日の攻城は終了。
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impressions
八木西口駅から徒歩10分少々。彩華ラーメン。奈良県民のソウルフード、らしい。ということで、宿泊場所の大和八木から足を運び遥々20分もかけて歩き到着。
彩華ラーメンは昭和43年に奈良県天理市で屋台から創業。通称天理ラーメンと呼ばれ、ラーメンに白菜を乗せるスタイルで親しまれてきたそうだ。
彩華ラーメン712円を食す。とてもうまい!白菜たっぷり、ニラとニンニクの効いたスープ。白菜の出汁か、ピリ辛の中に甘さもある。好きな味だ。仙台の八木山(か川内)にあったサワキのラーメンを思い出す。味玉付きと焼き餃子も頼んだのでしめて1110円。奈良のソウルフード、うまかった。近所にあったら月一で通うだろな。